第32話 免許と登録

 慧海の申し出は小熊にとって意外だった。

 知り合ってから数ヶ月。小熊は小熊なりに自分がカブに乗るようになって得たものを慧海に示してきた積もりだったが、慧海はずっと原付に興味を抱く様子が無かった。

 一人で原付免許を取りに行くことに不安を抱いている史を気遣ってのことかと思ったが、それは間違っている。史はこれから原付に乗るようになれば、怖いものやわからないものに何度も出会い、そのたび自分の責任で対処すべき方法を選別しなくてはいけない。誰かに助けを求めようにも、原付に乗れるのは一人だけ。

 少なくとも小熊はそうだった。だから今こうして無事でいられる。礼子はどうだろうかと思ったが、あれはきっと恐怖というものの意味をよく知らない。


 小熊は慧海に頼まれ、史のモトラを修復した。それが終わり史とモトラがこれからどうなろうと、小熊には関係ないこと。とりあえず小熊は自分が思っていることだけ言った。

「一緒に行ってあげるのが史のためになるとは限らない」

 慧海は憎らしくなるくらいの澄まし顔で言う。

「私はただ、この原付を見て免許を取りたくなっただけです」

 それから、小熊が今まで見たことの無い顔で言い添える。

「一人で行くのは不安なので」


 慧海もまた、学校という集団や社会システムの中に自分を馴染ませることに苦労している。彼女の言葉をそのまま鵜呑みにするなら、お互い一人では心細かった二人が、助け合いながら原付免許というものを手に入れようとしている。小熊が原付免許を取った時には必要無かった物。あの日の試験場や役所で何かの不備や具体的な理由があったわけではなく、ただ自分が一人だということを意識させられた時、隣に居てくれなかった物。

 小熊の抱いていた不満は、史ではなく自分自身に向けたものだったのかもしれない。小熊はカブのエンジンを始動させた。

「明日は午後三時頃にここに来る。それまでに免許だけでなく車体の登録も終わらせておいて」

 小熊はそれだけ言って帰路についた。


 翌朝。小熊はVTRでバイト先のバイク便事務所に行った。流通業はどこもそうだが、一月三日にもなれば顔ぶれも仕事量も普段と変わりなくなる。

 仕事仲間と簡単な新年の挨拶を交わした小熊はコーヒーを淹れながら、さっそく入っている仕事を確認した。今日も朝から浮谷社長と二台で出ることになるらしい。朝食のドーナツをコーヒーに漬けてノロノロと食べている浮谷社長を急かしながら、コーヒーを一杯飲んだだけで事務所を出た小熊は、自分のVTRに跨る。


 浮谷が黒いフュージョンのエンジンを暖機させている間、小熊が取りかかっているモトラの修復について聞いてくるので、簡単に経緯を話した。史と慧海が二人で免許を取りに行ったことも付け加える。私情の混じらない客観的な説明に努めていたが、たかが原付免許くらい一人で取りにいけない史に不満のひとつも漏らした。

 浮谷は一笑した。

「修行じゃないんだからさぁ」


 見た目も行動も子供みたいな浮谷の茶化し混じりの言葉が、小熊の胸をチクリと刺した。小熊がカブに乗り初めて間もない頃は、バイクに乗ることを精神と肉体を鍛錬するバイク道みたいに話す人間に、何で自転車より楽な乗り物で面白い思いをしたいのに、そんな事を言われなくちゃならないのかとウンザリさせられたが、いつのまにか自分が言う側に回っている。

 昔も今もそういう自分だけでやって満足していればいいことを、いちいち何か価値のある言葉のように語る奴に出会ったら、迷わず中指を立てる礼子のほうがずっとマシだろう。


 フュージョンのエンジンが温まり、腹の中のドーナツも落ち着いた様子の浮谷が、シューベルトのヘルメットを被りながら言った。

「小熊ちゃんはくやしかったんだね。どうやっても変えられなかった子を、他の子があっさり変えちゃったことが」

 それは史のことか、それともモトラか。小熊は浮谷の顔を見たが、シューベルトの濃いスモークシールドで隠され、浮谷の意地悪そうな目は見えなかった。とりあえず言われっぱなしだと内容を認めたことになるので、意趣返しくらいはしてやることにした。

「社長は免許を取る時に一人で行きましたか?」

「ううん。ママについてきてもらった」

 浮谷は欠片も恥じる様子も無く言った、事実、それもまた何一つおかしいことではないのかもしれない。

 いつも通り市街地では浮谷が先行するつもりらしく、黒いフュージョンが走り出した。小熊はさっきまで走っていてまだエンジンの熱いVTRのエンジンを始動させる前に、バイク便ライダー制服のメッシュベストに収まったスマホを掌で確かめた。


 このスマホには慧海と史の電話番号が入っている。今日の午前中は仕事で甲府近辺を走り回ることになるが、慧海と史が免許取得と登録を行う長坂の駅前まではそう遠くない。電話があればすぐに駆けつけることだって出来る。

 手助けなどしない事が正しいと思っている小熊はそんなことをする気は無いが、正しいことは一つだけでないらしい。

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