第33話 ズボン

 小熊の今日のバイトは予定より少し早い時間に終わった。

 昼過ぎまでかかると思っていたバイク便の仕事は、一緒に走った浮谷社長によると年始の挨拶回りを兼ねているらしく、小熊のVTRと浮谷のフュージョンは主に甲府市内を走り回ったが、浮谷よりその父母と仕事上の付き合いがあるらしき客先の人たちは、幼い頃から見知っている甘えんぼうの浮谷が、自分の力で生計を立てている姿に目を細めていた。

 普段は出入り業者に厳しい地場産業の経営者たちも、浮谷のことは特別扱いするかのようにすんなりと従来の契約を更新し、新規の仕事を依頼してくれた。


 バイク便会社を経営し自活している浮谷は、実家とは何の関係も無いことになっているが、もしかしてそんな浮谷の背後に、山梨の企業に多大な影響力を有するという浮谷の実家の影を見たのかもしれない。実際に浮谷の後ろに居たのは小熊だけ。実家差し回しのメイドか用心棒、あるいはそれを兼任する人間に見えなくもない。

 昼食を浮谷が一人の時は怖くて入れないと言っていた牛丼屋で済ませた。午後にもう一回りしただけで仕事が終わり、事務所に戻った小熊は、仕事で借りているVTRのキーを鍵保管用のスチールボックスに戻し、カブのキーを手に取った。


 社長は今日もVTRに乗って帰っていいと言っていたけど、小熊はこれから史のモトラを路上に復帰させる手伝いをすることになる。積載量やスピードではVTRに一歩譲るが、エンジンや細々としたパーツを共有しているカブで行ったほうが出来ることが多いだろう。

 小熊がVTRの走行距離を見る限り楽な内容だと思っていた今日の仕事も、浮谷は主に対人接客でオーバーワーク気味だったらしく、これからお昼寝をするというので、小熊は浮谷がさっき事務所で甘いコーヒーをゴクゴク飲んでいたことを思い出し、寝る前に歯を磨かせ、トイレに行かせた。


 もう目が半分寝ている浮谷は一度トイレに入ったが、少ししてからドアを開けて飛び出してきた。脱げかけのズボンで足を絡ませ、転びそうになるのを小熊が受け止める。

 浮谷は膝まで下りたズボンで歩幅が制限された状態でちょこちょこと自分のデスクまで歩いていき、あまり整頓されていないオフィスデスクの下から、何かの箱を取り出す。

 またちょこちょこ歩きで小熊のとこまでやってきた浮谷は、通販会社のダンボール箱を押し付ける。


「これ!史ちゃんだっけ?新しくバイクの世界にやってくる子に、先輩ライダーからのプレゼント」

 大きさの割りに軽い箱を受け取った小熊は、史に代わって浮谷に礼を言いながら、それならまずは見た目から先輩らしくしてほしいと思った。用を済ませた浮谷は別の用事を思い出したらしく、小幅な歩き方でトイレへと急いでいる。

 カブの前でヘルメットを被った小熊は、大きなダンボール箱がカブの後部ボックスに入らないので、外箱は事務所に捨てていくことに決めてダンボール箱を封しているガムテをバイクのキーで切り裂いた。大きな箱で梱包されていたが、中の商品は小さい。


 透明なビニール袋に入っていた浮谷のプレゼントは、ズボンだった。新品らしきブルージーンズ。ビニール越しに触ってみると、デニムと思われた素材は、ジーンズ風に加工された柔らかい革。袋に付いたラベルにレザージーンズと書かれている。

 こんな人によってサイズの違うものをプレゼントにするなんて、浮谷は思考も行動もどこか変だと思いつつ、小熊は自分がカブに乗り始めた時のことを思い出した。生活や人間関係など、変わったことは色々あったけど、服装に限れば最大の変化は、私服でスカートをはかなくなった事。


 あのスカートという服ほどバイクに向かないものは無い。風が吹けばめくれるし、転倒したら危ない。小熊にとって何より問題なのは、非力な原付はあのスカートによる空気抵抗で最高速が確実に何kmか削られているということ。

 周りに居る人間のことを考えた。カブを買う以前から自転車に乗っていて、休日はジャージ姿の多い椎はともかく、礼子はバイクに乗るようになる前はスカートを何枚か持っていて、カブに乗るようになった後も「スーパーカブ開発時の設計思想の一つは、女子がスカートのまま乗れる原付だということよ」と言いつつ、時々スカート姿で乗っていたらしいが、実際にスカートで走ってみると色々と不便が多かったらしく、次第にはかなくなっていったという。


 小熊は事務所の方を見た。仕事中も休日も子供みたいなオーバーオールばかりの浮谷も、何度かスマホで見せられた子供の頃の写真では、バイクに乗るようになる以前の画像で、ズボンを履いている写真は一枚も無く、着ているのは可愛らしいドレスやスカートばかり。服装が華やかになればなるほど、地味な顔立ちに似合わない。まだ普段見ているオーバーオール姿のほうが違和感無いだろう。

 もしかして浮谷は、バイクに乗るようになった時、自分には合わぬお仕着せのスカートを捨てたのかもしれない。そう思いながら小熊はダンボールを捨て、中身のレザージーンズをカブの後部ボックスにしまった。ああ見えて抜け目無いとこのある浮谷は、史のウエストやヒップのサイズくらい調べ済みなんだろう。


 小熊がカブのエンジンをかけ、暖機させていると、事務所のほうから大きな音がした。足にズボンが引っかかった状態でトイレに急いでいた浮谷の身に、何かあったのかもしれない。

 あの社長なら転んで泣いても、泣きながら自分の力で立ち上がる。もし転んだ時にもっと大変なことが起きたなら、見なかったことにしたほうがいいと思った小熊は、カブのギアを一速に入れ、慧海と史の待つ武川の果樹園へと走り出した。

 

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