第23話 最大と最小

 慧海はカブを押して歩く小熊と並んで歩いた。

 自然に歩調を合わせてくれるが、カブを後ろから押して手を貸すようなことはしない。慧海はバイクには詳しくないけど、それが余計なお世話だということを知っている。

 前を歩く小熊は、後ろからついてくる慧海に誘導されるように県道を歩いた。どこをどう歩いてどうやって帰るかなんて決めていない、慧海は知っている。

 真冬の深夜にも係わらず、街灯が整備された県道は歩くのに支障が無かった。小熊は走行中の寒風に晒されることを前提に選んだ服を身に着けているし、バイクに乗る人間の習性で、無意識に靴底でアスファルトを擦ってみたところ、今夜は気温は零下でも空気が乾燥しているためか、路面の凍結は無い。


 小熊は道の左右を見た。県道の外は漆黒の闇。時々建物を見かけるけど、昼間は田畑や間道の見える空間は、ただの黒い塊だった。

 こんな暗闇もスーパーカブのヘッドライトを向ければ、走るべき路は明るく照らし出される。デイスチャージ式ヘッドライトとフォグライトを備えた車や、LEDやマルチリフレクター等の新世代ヘッドライトを付けたバイクに比べれば、エジソンが百年以上前に発明したフィラメント電球のライトは頼りないけど、未知の闇をカブで走ることの出来る自分の世界に変えるには充分。

 

しばらく暗闇を眺めていた小熊は、真夜中にカブを押して歩いている目的を思い出し、口を開く。

「あの同級生のことで、話があるんだっけ」

 慧海が頷くのがバックミラー越しに見えた。道端の自販機が発する白く無機的な光に照らされてもなお、生命力を感じさせる姿。

「小熊さんの助言を頂きたいことがあります」

 生きるのに誰の助けも必要としていないように見える慧海から助けを求められるのは悪い気分がしない。小熊は振り返り、肩越しに慧海を見て続きを促す。

「わたしは最近、史とよく一緒にいます」

 まことに好ましくない気分。小熊は自分がもうすぐ卒業する上級生で、慧海と史が同じクラスだということを思い出し、慧海がこれから先の高校生活でどちらと人間関係を深めるべきか考えた小熊は、忍耐強く話を聞いた。

「史は生きるために最小の力で生きています」


 小熊としてはあの黒い幽霊のような女が、地に足つけて生きているのかさえ怪しいと思ったが、きっと生きている者と死者の境目に近い存在なんだろう。賽の河原に行くといつもそこに居そうな、かといってあなたは何をやらかしておっ死にましたか?と世間話をする気にもなれない人間。

「わたしは今まで、生きるために自分の持てる総ての能力を発揮すること、その最大値を上げることに力を尽くしていました。わたしとは違う方法で生きている史のことを興味深い存在だと思いました」

 小熊は慧海の話すこと全てが理解できない自分の愚昧さを思い知らされた。でも、答えを知らないまでも、そこへ至る道を推測する方法が無いわけではない。

「それは、カブみたいだ」

 小熊が乗っているカブは、移動機械としてもバイクとしても、最低限の力しか無い。幹線道路の流れに何とか乗れるエンジンと、旧世代の車体。世の中にはもっとパワーがあって高性能な装備を付けたバイクが山ほどあることは、バイク便の仕事をしていて知った。

 しかし小熊のカブは、その最低限の性能で、ハイパワーなバイクにも出来ない難事を幾つも成し遂げてきた。

 

 慧海は手を伸ばし、小熊のカブに触れながら言う。

「このカブという小さなバイクに乗っている小熊さんが、史が生きていくために必要なことを知っていると思いました」

 小熊は押して歩くとイヤになるくらい重いカブを見た。旧いプレス鉄板の車体の重量だけでなく、維持に必要なコストや走る上でのリスク等が、常に小熊の体に負担を強いる。小熊は今までの経験で得た自分なりの考えを慧海に伝えた。

「その史って子が今、最小の力で稼動に支障なく動いているのなら、そのまま何も変えないほうがいい」


 小熊は今まで自分がカブに乗って生き延びてきた理由の一つは、カブに無理な改造を施さなかったことだと思っている。安易な改造で個々の部品の性能が上がっても、その部品そのものが強度や耐久性の脆弱点になる。何かあった時のノウハウの蓄積も、多くの人間が乗っている無改造のカブと、一台ごとに仕様の異なる改造カブでは大きく異なる。

 少なくとも足回りが弱いとすぐに強化品に換え、パワーが足りないとエンジンをどこまでも改造する礼子は、そのしっぺ返しで死にかけたことが何度もある。先日もライトが暗いと言って補助ライトを付け足したところ、安物のステーで強引に付けたライトが林道で吹っ飛び、立ち木に当たったライトが跳ね返って礼子の頭を直撃したのを見た。

 もちろん礼子は外れて飛び、自分を殺しかけた補助ライトをすぐに探し、拾って帰ったライトをもっと強度が高く、カッコいいステーで付け直した。


 慧海は小熊の言葉に首を振った。バックミラー越しに写る慧海の憂いを湛えた表情を見て、何もかもが見えていて、何でも知っているような慧海がこういう顔をすることもあるのかと、少しの間見とれた。バックミラーに街灯が反射してよく見えない。今度ナポレオンあたりの高性能サイドミラーを買ってきて取り替えようと思った。

「史の持つ必要最低限の力は、時に世の中に数多くある抵抗や障害を乗り越えるのが困難なことがあります」

 慧海はそう言いながらマウンテンパーカーのポケットから取り出したものに、小熊の目は奪われた。重そうでごついスマホ。CATのロゴが入っている。小熊は最近自分のスマホで見たネットニュースで、そのスマホはトラックで踏んづけても壊れず、スマホとしての基本的機能に加えサーモグラフィ-まで付いていることから、中東駐留の米軍人に人気があるという記事を見たばかりで、礼子は本気で買い替えを考えていた。

 慧海はスマホを操作し、何かの文字を打ち込んで再びポケットにしまった、それから進行方向の斜め前を指す。

 ナマコ塀に囲まれた大きな一軒家。慧海の誘導に従って広い敷地の裏に回ると、勝手口の前にヒトガタの黒い影が居た。

 慧海は旧い日本家屋に付き物の幽霊にしか見えない史に手を振った。 

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