第22話 キャンタロープ

 夕食の時間が終わり、デザートがテーブルに並べられる間に、外の道路から聞き馴染みのある音が聞こえてきた。

 ノーマルでは静粛性が高いが、カスタマイズした時は大型バイク顔負けの迫力を有するカブの排気音。ショートチタンマフラーの発する鈴のような振動音や、大径のキャブレターの吸気音まで聞こえてくる。

 礼子のハンターカブが近づいてきていた。

 小熊はBEURREに招かれる前にも一度電話したが、その時の礼子はハンターカブの調整をしていた。セッティングと呼ばれる調整作業の中でも、最も精密で繊細な、そして延々終わらない繰り返しの求められる燃料調整。

 車やバイクの世界ではパワーアップ等の意味で使われているチューニングとは、本来こういう楽器の調律と同様の調整作業を意味していた。礼子はハンターカブの燃料や給排気ポート、足回りを調整作業し始めると、しばしば寝食を忘れ没頭し、学校に行くことまで拒む礼子を小熊が引っ張って行ったことも一度や二度では無い。


 明けても暮れてもバイクのことばかり考えていれば、悩みが無さそうで結構なことだと思いながら、小熊は目の前に置かれた濃いオレンジ色のメロンに意識を切り替えた。

 椎の母の話では、このキャンタロープというメロンは、糖度はマスクメロンに匹敵し、アメリカでは大衆的な品種としてダイナーやカフェで気軽に食べられているけど、採取されてからの追熟期間が二十四時間ほどしか無いので、日本では加工品か空輸急送したものしか食べられないらしい。

 小熊はキャンタロープの濃厚な香りを嗅ぎながら、聴覚は窓の外に向けていた。聞こえてくるハンターカブのエンジン音を聞く限り、セッティングの結果は上々な様子。夕食には間に合わなかったが、デザートから途中参加の礼子は、馬鹿の標本という意味ではいい話の種になるだろう。

 

 店の前で減速したらしく、シフトダウンの空吹かし音が聞こえてきた。次の瞬間、銃器を発砲したような乾いた破裂音が響く。

 礼子のため一皿余分にメロンを用意しようとしていた椎の母が「あーあ」と言った。

 自分のメロンにマールと呼ばれるワインの葡萄粕から作ったブランデーを振りかけていた椎の父が、首を振りながら言う。

「どうやら今夜の礼子君は欠席みたいだな」

 小熊は窓を見た。片足をつき、ハンターカブをアクセルターンさせて引き返していく礼子の背が見えた。礼子が来るといつも体を触られまくったり、ちょっかいを出されたりする椎が、遠ざかるハンターカブの音に、安堵したような、少し物足りなさを感じているような表情をする。


 慧海は小熊を見て、疑問を覚えているかのように首を傾げている。椎の両親と小熊は知っているらしき、礼子が帰って行った理由について興味を抱いている様子。

 純粋な好奇心を抱いた慧海の瞳に少し見とれていた小熊は、とりあえず自分の知っていることだけを答えた。

「あの音が出る時は、燃料調整に問題がある」

 先端にギザギザの付いたグレープフルーツ・スプーンでキャンタロープを掬っていた椎の母は、くすくすと笑いながら付け加えた。

「アフターファイアは濃くても薄くても出るから厄介なのよね」

 小熊のメロンにもマール・ブランデーをかけようとした椎の父は、小熊に断られて残念そうにボトルを引っ込めながら言う。

「減速で回転数を落とした時に出たみたいだからな、たぶんキャブだけでなくエアクリーナーやマニホールドまでやり直しだ」

 燃料調整が電子制御されたリトルカブに乗っていて、自分で整備作業の類をしない椎は全然理解出来ないといった顔をした、小熊は何となくわかる。高回転からのアクセルオフでアフターファイアが鳴る原因の一つは、吸気過程で二次エアと呼ばれる通常の空気吸入経路と異なる箇所からの空気を吸っていて。高回転域ではよく回るけど、回転を落とした途端に、燃料が濃くなって余剰の燃料が排気内で破裂燃焼する。

 

 小熊は慧海を見ながら、慧海が知らないことを自分が知っているという、あまり性格いいとは言えない優越感を覚えながら言う。 

「つまり礼子は今、頭の中がバイクの事で一杯で、他のものが何も入らない」

 慧海は椎のように、わからない物事に対し混乱しているような顔をしていない。話の中に出てくる単語や情報より、姿を見せず音だけを響かせて去っていった礼子の姿勢や心理に興味を覚えている様子。

「小熊さんもそうなったことがありますか?」 

 小熊としてはあの馬鹿と同列に扱われることに少し抵抗があったが、とりあえず慧海には偽らず事実を伝えた。

「ある」

 椎がキャンタロープ・メロンでべちゃべちゃと口の周りを汚し、あまり上品でない食べ方をしながら呟いた。

「小熊さんがスーパーカブに向けるその気持ちを、ちょっとだけ分けてくれればいいのに」


 デザートのメロンを食べ、椎がこれだけは自分がやると主張して淹れたカプチーノを飲み終えた小熊は、泊まっていくことを薦める椎の両親の厚意を、明日も仕事があるからと丁重に断り、席を立った。

 小熊に抱きついて離れず、力技で引きとめようとした椎も、小熊に頭を撫でられているうちに眠くなってきたらしく、足をふらつかせながら自分の部屋へと帰って行った。

 椎の両親に今夜の夕食への礼を述べ、店の外に出た小熊は、裏手に停めてある自分のカブへと向かった。シートに跨り、ポケットからキーを取り出したところで、慧海が姿を現した。

「少し小熊さんとお話をしたいと思いました」

 少しといわずいつまででも聞いていたくなる声。小熊はカブのシートに座り直しながら答えた。 

「今夜はそのために来た」

 慧海は闇夜の猛禽を思わせる目で、小熊を見ながら言う。

「史のことです」

 帰りたくなった。

 とりあえず慧海が何かを求めていて、自分が慧海のために何か出来るのなら、それがあの幽霊みたいな女の事だろうと、話を聞くべきだろうと思った小熊は、カブのエンジンを始動させることなくスタンドを上げながら言った。

「歩きながら話そう」

 慧海は頷き、カブを押して歩く小熊の横に付き添って歩き始めた。

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