第21話 テクス・メクス
椎が半ばふてくされながら教えてくれた話によると、慧海は外出しているらしい。
家を安心して暮らす場所ではなく、別の場所に行く前に寄る物資集積所のように思っている慧海も、椎が姉の強権と泣き落としで朝晩の食事は家族と食べることを決めさせてからは、夕食の時間には家に居るようになった。
それまでは外に出て山野を徘徊していることが多く、夕食後に出かけることもある。あるいはその両方。
小熊が来ると聞いて椎の両親が夕食を作って待っているというので、ご馳走になることにした。
カフェのイートイン・スペースで椎の父が淹れたオリジナルブレンドのコーヒーを飲んでいると、キッチンスペースから香ばしい匂いが漂ってくる。クリスマスのディナーは椎の父の作ったドイツ料理だったけど、今夜は椎の母がテクス・メクスと言われるアメリカナイズドされたメキシコ料理を作ってくれるらしい。
「何をそわそわしてるんですか?」
テーブルの向かいに座る椎が、上目遣いに小熊を見ながら言った。小熊は窓の外を見ながら答える。
「この店のチリは以前食べた時にまだ未完成と言っていたから、今日のチリが楽しみ」
椎は小熊の頬を指でつつきながら言う。いつも用があって小熊を呼び止める時よりも、頬に刺さる指先が痛い。
「うそつき」
何度も味見をしていた椎の母が「よし」と言って琺瑯のシチューポットを持ってくる。小熊は運ばれてくるチリとは反対方向、店の入り口に視線を投げた。
いつも通り靴底の厚いアウトドアシューズを履いているとは思えない静かな足音。右手を常に空けておくために左手でドアを開ける動き。入り口につっかえるほど背が高いわけでもないのに、屋外から建物の中に入る時には、いつも狭苦しい場所に体を押し込むような仕草。
「おかえり、慧海」
慧海は小熊の顔を見て目元を和らげた。
クライマーパンツにマウンテンパーカー姿の慧海は、一度自分の部屋に戻って着替えてきた。オレンジ色のスウェットシャツにワークパンツ。小熊が隣の椅子を引くと、短く礼を言って腰掛ける。
向かいの椎は冬休みに入ってからずっと受験勉強で家に篭っているらしく、くたびれた水色のジャージ上下。椎は来年から紀尾井町にある大学の外国語学科に進むことを希望しているが、もし椎が文系ではなく、大学に着いたら白衣に着替える理系に進んでいれば、寮や下宿でも通学中もずっとジャージ姿で過ごす女になってしまうんじゃないかと思った。
都心の街中をジャージで歩く椎の姿を想像した小熊は笑い出しそうになる。小熊に見つめられ微笑まれた椎は、数日ぶりに会った自分が綺麗だと言われたかのように顔を赤らめて俯き、家の外に出ない生活で少し乱れた髪を指先で直している。
小熊は横目で慧海を見た。白熱灯の灯りの下ではオレンジ色に輝く慧海の髪は、寒空の下を駆け回っていても見た目の美麗さを損なうことが無い。神だか物理法則か何かに守られた髪だと思った。
いつも自分で切っているという髪は、伸びてくると野性味を増し、切った直後には色気を発する。いつかバイト先の浮谷社長の、何度切っても母親が切りすぎたようなヘアスタイルになる髪を切って貰えるか頼んでみることにしようと思った。
椎の両親が着席し、テクス・メクスの夕食が始まった。チリをメインに据え、エンティラーダと呼ばれる春巻きや、トルティーヤと呼ばれるトウモロコシ粉のパン、ワイルドライスと呼ばれる野生種の米で作ったメキシカンピラフ。いずれも刺激的で食欲をそそられる。暑い国の料理なのに、なぜか日本の冬に不思議と調和する。淡白な正月料理に飽きが来た頃にこの料理を選んだ椎の母のセンスには小熊も脱帽させられた。
以前にここで食べた豆とトマトのチリは未完成だと言いつつ、味のほうはとても美味だったと記憶していたが、今夜出されたのは牛肉と唐辛子を煮込んだテキサス風チリ。肉の旨みと唐辛子のスパイスは、美味い不味い以前に人間の生命力を掻き立てられる味がする。
慧海は辛さなど苦にもならぬ様子で静々と食べ、椎は辛い辛いと言いながら頬張り、汗を浮かべている。
椎の母は、レモンスライス入りの炭酸水を時々口に運びながらチリを食べる小熊を見ながら言った。
「山梨の大学に進学しなかったのが本当に残念」
小熊はチリの辛さで痛くなってきた口中を冷やすように、息を吸ってから答える。
「あまり選択の余地はありませんから」
奨学金付きの進学という条件を掲げた大学の中から、東京の大学を選んだ理由は自分でもよくわからない。教師が持ってきた話が好条件で魅力的だったから。それもあるけど、小熊は今の場所が居心地いいからこそ、今とは違う場所に行くことを望んだ。
いいと思った場所に立ち止まることはあっても、動くことをやめてしまえば自分がそこまでの人間になってしまうことは、カブに乗っていて知った。
「大学に行っても、またここに来てくれる?」
椎の母が首を傾げながら聞く。椎と血が繋がっていることを感じさせる仕草。
「このチリより美味しいチリを作る人間がが見つかるまでは」
椎の父が瓶から飲んでいたコロナのビールに咳き込みながら笑った。
「それなら当分の間は大丈夫だ」
それからコロナの瓶を差し出す。
「せめてこれを一緒に飲めるようになるまでは」
小熊は自分の飲んでいた炭酸水のグラスを、コロナのボトルに軽く当てた。
「飲めるようにならなくとも、来ます」
椎の父はコロナを掲げた。椎の母も飲んでいたクアーズの缶を当ててくる。
「乾杯だ、我が友人よ」
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