第24話 夜の散歩

 史は初詣の夜に会った時にも着ていた、黒いロングコート姿だった。

 小熊は洋服の色、特に白や黒のようなシンプルな色ほど、色の力は素材の価格に比例するのではないかと思わされることがある。

 おそろしく上等そうなカシミアのロングコートは、夜闇に溶け込むというより、夜でも微かながら存在する自然や人工の光を吸い込み、奪っているようにも見えた。

 小熊は自分が着ている米軍用トレンチコートを摘んだ。去年の梅雨に制服の上から気軽に羽織れる雨具として買った中古のコートは、ライナーを付ければ防寒具としても良好なので、冬でも近場への外出の時にはよく使っている。新品の頃は濃い紺色だったらしきコートは、前の持ち主が丈夫な厚手のコットン生地をよほど過信し酷使と洗濯を繰り返したらしく、全体的に淡く色褪せしていた。

 

 以前に史を見た時も、彼女の対して抱いた第一印象から真っ先にそうしたように、小熊は彼女に足があるのかを確かめたが、地面に擦りそうなほど長いコートのせいで足の存在は確認できなかった。バイクに乗る時に、あのコート丈は危険だと思った。旋盤やホイストを扱う作業員が上着の袖をだらしなくズボンの外に出していたため、回転部分に巻き込まれて死亡した話を何度か聞かされたことがある。少なくともバイクに乗る時の性能に関しては、膝丈で袖やウエストを絞れる構造になっている自分のトレンチコートのほうが優秀だと思ったが、きっとカシミアのコートを着るような女は、汚れ仕事の時に着るコートを別に持っているんだろう。

 

 小熊はコートのポケットに手を突っ込みながら、史に言った。

「慧海が、私とあんたを会わせたいと言っていた」

 大きな日本家屋の勝手口から出てきていた史は、二年先輩の小熊が発する不機嫌そうな言葉に恐れを成した様子で、勝手口の中に引っ込もうとする。小熊は自分が数珠を振り、悪霊退散と唱えたような気分になった。

 慧海が小熊の肩に手を置きながら、史に言う。

「少し散歩しよう」


 史の口元が綻んだ。彼女の長い黒髪にはカシミアのコートと似たような効果があるらしく、顔の造作もよく見えないが、小熊としてはあまり見たくなかった。

 以前、バイク便の職場で霊柩車のドライバーと掛け持ちししている人と話したことがある。近隣の病院で複数の遺体が出た時は同じ社の霊柩車ドライバーとスピードを競ったり、以前扱った死体について冗談を飛ばしたり、人が葬祭業に抱くイメージと異なる明るい職場らしいが、そのドライバーは言っていた、もしも取り扱う遺体の目が開いていたら、決して目を合わせてはいけない。忘れられず三日は眠れなくなる、と。

 きっと史の目も、生命力に乏しい彼女に似合いの、見ただけでこっちの寿命まで削がれてしまうような瞳なんだろう。そう思いながら、小熊はカブを押して歩き始めた。自分だけでなくカブの車重に助けられるような形で、史を押しのけて慧海の左隣に付く。

 慧海は後方に手を伸ばし、歩くというより漂うといった感じの黒い影を、自分の右隣に優しく引き寄せた。相変わらず小熊には史の足が見えない。


 空気が硬く澄んだ真冬の夜道を、小熊と慧海、史は並んで歩いた。何も言わずただ静寂を楽しむという雰囲気でも無かったのか、慧海は三人で歩き始めて間もなく口を開く。

「私は、こうして史とよく外を歩いています」

 小熊は頷いた。きっと慧海の話すこと全てを漏らさず聞けば、こんな真夜中に散歩をすることになった理由も明らかになる。小熊の知る慧海は無駄口を叩かないが、話すべきことは全て話す。

「史は、外に出ない子でした。学校から帰るとずっと家の中に居て、何もしていない。高校に入ってしばらくの間は、学校に来ることさえ困難だった」

 小熊は慧海の肩越しに史の反応を窺ったが、女子としてはかなり長身な慧海の体に隠れて見えない。ただ、史の体格は慧海より一回り小さいのに、何か慧海を覆い隠すほど大きく黒いものがある存在感だけは伝わってくる。

「やっと学校に来た史を見た私は、最小の力で生きる彼女に興味を抱きました。何度も話しかけ、彼女のことを知っていきました」


 あまり愉快でない話を聞かされた小熊は、気を紛らわせるように別の考え事をした。仕事で大月の外車ディーラーに行った時の記憶。何かの部品だという荷物の受け取り待ちの間、店に来ていた客と少し話したが、その客は先日自分の旧いランボルギーニで名古屋まで行き、片道だけでガソリンを百リッターほど使わされたという。小熊は目についた4リットルのオイル缶を手に取って答えた。

「私のカブならこれくらいで行けますね」

 その客は参った!といった感じの顔をした。こういうふうに困らされるのもまた趣味性の高い車に乗る楽しみの一つなんだろう。燃費に関しては優れているカブもまた、雨風に晒された時の苦労やチューブレスよりパンクしやすいタイヤなど、小熊を困らせる部分は色々あって、それは魅力でもある。

 後日その客が、愛車のランボルギーニの部品とガソリンには相変わらず散財しつつ、普段の足に使うためピアジオの原付を買ったと聞かされた。


 慧海は話し続ける。いつも必要なことを必要最小限の言葉で話す慧海が、なぜかいつもより饒舌であるかのように感じた。

「史は少しずつ私と話してくれるようになりました。史の生活、史の食べる物、全てが興味深かった。そして私は知りました。史は毎日学校に行き、普通の女子高生として暮らすことに苦痛を覚え始めていると」

 慧海は小熊に視線を送り、県道を曲がる。細い砂利敷きの間道に入ると、街灯が無くなり周囲は暗闇に包まれる。 

「私は学校帰りや放課後、史を散歩に連れ出すようになりました。史も生きるために必要な力を持たぬ自分を変えるため、私と一緒に歩くことを望んでくれました」

 未舗装の道路では押して歩くのに体力を要するカブを押しながら、なんとか慧海についていく。慧海は小熊より史の足元を気遣っている様子。 

「史の両親の話では、中学時代からそうだったと聞きました。体調がよくなると学校に行きますが、それで体力を使い切ってしまい、行っては休むことの繰り返しだったと」


 史のロウソクの炎のようにちっぽけな生命力は、人が子供から大人になるに従って増える周囲の変化という波風に晒され、揺らいでいた。小熊は慧海に言う。

「その史という子が弱い女だということはわかった。でも私は、人が強くなる方法を一つしか知らない」

 小熊は自分のカブを掌で叩く。今もなおエンジンを切ったカブは、押して歩く小熊にただのウォーキングより高負荷なフィットネスを行わせている。

「その一つでいいんです」

 慧海が足を止めた。間道の行き止まりは錆びたコンテナハウス。小熊が一人で走っている時に何度か見たことのある、この先の広い果樹園を所有する地主が設置したらしき管理小屋。以前は果樹園で採れる葡萄の即売所があったが、近くに軽量鉄骨の新しいプレハブが建ち、今は即売や入場者管理はそちらで行われている。


 史がコートのポケットから鍵を出し、コンテナハウスに取り付けられた錠に入れて回す。慧海が重く軋むドアを難なく開けた。小熊はコンテナハウスの中の暗闇に目をこらす。

 慧海がマウンテンパーカーのポケットに手を突っ込み、フラッシュライトを取り出しそうとしたので、小熊は手で制しながら言う。

「カブのエンジンをかけていいかな?」

 慧海が頷く。小熊はここまで押してきたカブをキック始動させた。カブのヘッドライトでコンテナ内部が照らされる。

 ドラマなら死体でも隠されていて、小熊も共犯者にさせられる展開だなと思いながら、中を見た小熊は、それに似たものを見つけた。慧海の言いたかったこと、ここまで小熊を連れてきた理由を知る。

 コンテナの中には、旧い原付バイクが捨てられていた。

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