第39話 レクサスの女と
後で思い返すに、帰路で少し暖を取ろうと思ったのがいけなかったのかもしれない。
小熊は解体屋からの帰り道で、ちょっとした面倒事に巻き込まれた。
途中で変な見世物に遭遇しつつ、目当ての部品を首尾よく手に入れた小熊は、一人で甲州街道を走っていた。
フルーツラインの解体屋には偶然タイミングが重なり六人の女子が集まったが、往路と同じく帰りもバラバラだった。礼子は冬休みの間に解体屋に眠るお宝を探すべく、あと何軒か回ると言って勝沼バイパスを大月方面へと走り去った。
乗っているバイクがまだ原付一種の慧海と史は、あちこち寄りながらゆっくり帰るという。免許を取って数日の史にとって、勝沼までの走行はちょっとした冒険だったらしく、帰路の走行に緊張している様子だったが、何事においても慎重な慧海が一緒なら大丈夫だろうと思った。
小熊もまだ経験の浅い二人と一緒に走ってあげるほど優しくはない。バイクに乗る人間は優しい人に囲まれているだけでは成長しないことも知っている。
礼子のハンターカブに乗せてもらってここまで来た椎は、浮谷社長のフュージョンにちゃっかり乗せてもらっている。身長一四〇cmに満たない椎が、フュージョン後部の座り心地いいタンデムシートにちょこんと乗る様を見た浮谷は、フュージョンに皆が羨むようなアクセサリーを付けたみたいに上機嫌。浮谷がカラスと名づけている愛車フュージョンが、カラスの名にふさわしくキラキラした宝物を拾ってきた気分になっているに違いない、事実小熊もちょっといいなと思った。次にここに来た時はカブの後部荷台に付ける二人乗り用のビリオンシートを探そうと思った。
新品はもちろん、大手中古パーツショップで買ってもそれなりの値段のするカブのリアサスペンションを、kg幾ら計算の解体屋価格で買えたことで金が浮き、少し気が大きくなっていた小熊は、温かいコーヒーが一杯飲みたくなり、帰り道の途中にあるファミレスに入った。
夕食にはまだ少し早く、満席に若干ながら余裕のあるファミレス。店員がお好きな席へどうぞというので、カブを駐めた駐輪場が見える奥の席へと進んだ小熊は、聞いたことがあるような無いような声に呼び止められた。
「あなたもお茶?」
四人掛けのボックス席で手を振っていたのは、さっき解体屋で見かけた、レクサスの女だった。
小奇麗なマルーンレッドのパンツスーツを着た女は、自分の向かい側を指しながら言った。
「ここ空いてるわよ」
小熊としてはあまり係わり合いになりたくなかった。小熊がさっきまで居た解体屋店長と旧知の仲らしき女。盗み聞きせずとも耳に入ってくる話の内容で、彼女が藍地くんと呼んでいた店長がバイク解体屋で働くことを、良く思っていないことは知っている、こっちはその店で二日続けて出くわしている馴染み客。いい印象を持たれているとは思わなかった。
向こうがこっちを何かの理由で嫌っているなら、その感情を取り除くような無駄なことはしない。小熊がバイクという人によって印象の異なる物に乗り始めて学んだ事。世の中にはバイクに乗っているというだけで十年来の友人のように接してくる、良く言えば友好的、悪く言えば距離感のおかしい人間が居て、無論その逆も居る。アレルギー的にバイクを嫌っている人間にはこっちも触りたくない。小熊の見立てでは、このレクサスの女も嫌悪の側に居る人間。
小熊は聞こえないふりをして通り過ぎようと思ったが、ちょうど目当てを付けていた最奥の席を別の客に取られ、ほぼ満席になったので、しょうがなしにレクサスの女の向かいに座る。今度からファミレスに寄る時は、駐車場や駐輪場に怪しい車が無いかチェックしようと思った。例えば非道徳的な改造を施した赤いハンターカブなど。
「失礼します」
レクサスの女の向かいに腰を下ろした小熊は、座るなり呼び出しボタンを押した。忙しいふりをして早々にコーヒーを飲み終えて席を立てば、無駄に絡まれることも無いだろう。
向こうもお茶を飲みながら何かの書き物をしていたらしく、テーブルの上にはタブレットとワイヤレスのキーボードを広げていて、横には空のカップと食べかけのピッツァが置かれている。
すぐに店員が来たので、小熊が注文しようとしたところ、レクサスの女が横から口を挟んだ。
「お会計は一緒で」
この女に奢られる理由は無い。断ろうとしたが、レクサスの女がメニューを広げて選択を迫るので、初志貫徹でドリンクバーのみ注文した。
レクサスの女はにこやかに言った。
「デザートもいいのよ?まぁ後から頼めばいいわね」
うっかり奢って貰ったりしたら面倒なことになるのではないかと思ったが、どうせ解体屋でたまに顔を合わせる程度の人間関係、それほど実害は無いだろうと思い、短く礼を言った小熊は席を立った。
「コーヒーを淹れてきます」
小熊がレクサスの女のカップを手に取りながら目で聞くと、レクサスの女は他人に指示することに慣れた声で答えた。
「ダージェリン、クリームと砂糖つきで」
小熊はドリンクバーまで行き、自分のカプチーノと、ティーバッグで置いているため無駄に手間のかかるレクサスの女のお茶を注いで席に戻った。小熊としてはあの女のために働く気は無かったが、とりあえず夕食を奢ってくれるということだし、どう接したらいいのか考える時間が欲しかった。
結局何も思いつかず、両手にカップを持って持って席に戻る。レクサスの女は「ありがと」と言いながら小熊が淹れてきたお茶を手に取り、一口飲んだ、それから話し始める。
「さっきはお買い物中にうるさくしてごめんなさいね。お邪魔だったでしょ?」
小熊は首を振りながら答える。
「元より騒がしい場所ですから、気になりません」
解体屋は棚にディスプレイしている商品をただ取るような場所では無い。目当ての部品を手にするために、置かれているバイクを自分で分解したり、部品の山を登って掘り出したりする。たまに居合わせた客が一九六〇年代のホンダGPレーサーを見つけ、二万回転くらい空ぶかしすることもある。
小熊も最初は消音器など無いメガホンマフラーの鼓膜を破りそうな音に困惑したが、そのうち珍しいバイクのエンジンを回す時は、解体屋の奥から見に来るようになった。当時のレースシーンではホンダミュージックとも呼ばれた排気音が八ヶ岳に木霊が響かせるなんて、聞かない手は無い。
猫舌気味の小熊が口腔の熱さをこらえつつカプチーノを飲んだ。今は温和な顔をしているレクサスの女が、棒人間と一緒に居た時のように情緒不安定な様を見せる前に退散しようと思った。
レクサスの女は、着香が強めなためそのまま飲むほうが向いているダージェリンに、クリームと砂糖を入れるなり飲み始めている。小熊の恣意的な基準では、少なくとも味覚において信頼に値しない。
熱いお茶や冷えたピッツァ、ついでに他人の言葉や感情にも鈍感らしき女は、席から半分尻の浮いた小熊に向かって一方的に言った。
「良かったらこれから何か食べに行かない?いいお店を知ってるの。もちろん奢りで」
体のいいお断りの台詞は思い浮かばなかった。どうやらお茶だけでなく夕食までタダでありつけるみたいだが、それは随分と高くつきそうな予感がした。
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