第12話 ボールペン

 小熊は目の前に置かれた紙に書かれた内容を慎重に確かめた後、サインしても問題無いと判断した。

 スーパーカブに乗るようになってから作成する機会の増えた、各種の許認可書類を書いた時の経験則で、自筆による署名のもたらす意味とそのリスクについては知っている積もり。少なくとも小熊が絶対にサインしたくないと思っている警察署発行の青や赤のチケットは、サインすれば自動的に記載内容を全て認めたことになる。


 カブとの生活より長い付き合いの貧乏暮らしのおかげで、金は稼ぐより無くさない事に対して敏感になる。それゆえ小熊は自分がサインを求められた物の中身を慎重に検めた。

 経験上相手がサインを急かす時は記載内容が怪しい。相手がある部分への注意を喚起した時には、それ以外の箇所に注意しなくてはいけない。そしてなにより、サインした書類を交わす相手との信頼関係。

 小熊の目の前に居るのは、小熊が去年から在籍、登録している医療検査会社の社長。小熊はこの会社で医療検体を集配するバイク便の仕事を請け、奨学金を補う副収入には充分すぎる時給を頂戴している。

 

 今回、小熊が甲府にある支社事務所に呼び出されたのは、検査会社が提携している流通業者への出向在籍の契約を交わすため。バイク便ライダーの人手が足りなくなり、それを補う人材として小熊が選ばれた。技量や実績というより、単に年末年始という時期に予定らしい予定の無い人間が少なかったからだろうと思った。

 仕事の内容は、普段小熊がカブに乗り、医療機関を回るコースを走って検査物を集配する、ルート便と呼ばれる仕事と大筋において変わりない物だったが、今回の仕事は決まったルートが存在せず、その都度違う顧客の元に荷物を送り届ける。


 給与が今までのような時給計算ではなく出来高になったり、仕事の時の格好が私服から制服になったり、細かい差異はあったが、小熊にとって最大の違いは、事務所と直結した車庫で、さっきから小熊の視線を惹きつけている物。

 今回のバイク便出向で小熊が乗ることになる、社からの貸し出し車両。ホンダVTR250。

 ホンダ社が発売しているロートバイクで、一九八〇年代から変わらない構成のエンジンと、格子状のトラスフレームがもたらす堅牢さから、日本のバイク流通業者で最も多く使われているため、バイク便の軍馬と呼ばれている。

 きっと小熊は、金や仕事内容ではなく、このVTRに魅せられて、まんまと自らの身売り書類にサインをしようとしている。


 書類の内容に不備が無いことを確かめ、何より早くこのVTRの試乗をしたいと思った小熊は、荷物を背負う大きなバッグがいらない外出の時によく使っている、ポーターのウエストバッグからペンを取り出した。

 小熊は出かける時にはバッグの中やポケットにボールペンを入れていた。礼子のようにいざって時に武器として使う趣味は無かったが、覚え書きの類をスマホの機能で済ませていても、紙に手書きのメモがそれより優秀なツールになる場面は多く存在する。

 出先で書類を書かなくてはいけなくなった時など、借り物のペンは当てにならない事が多い。銀行や郵便局、あるいは役所の記入机にはペンが置かれているが、そのペンを借りるための列が出来ていることもあって、前の人間を待つのも、後ろから急かされるのも、あまり気分のいいものではない。

 事実、目の前の社長が、小熊にサインさせる書類を持っていているにも係わらず、ペンを忘れてきている。小熊が慌ててペンを取りにいこうとする社長を制し、自分のペンを取り出すと、社長はこれこそ小熊を出向ライダーに選んだ理由だというような顔をした。バイク便、特に冬季の走行は転ばぬ先の杖を何本も持っている奴で無いといけない。たとえば礼子のように好き好んで転びに行くような奴には出来ない事。


 小熊は最初から借り物ではなく、自分のペンで署名する積もりだった。手に馴染んでいないペンが、つまらない書き損じを招いたりすることは、カブを整備する工具を人から借りた時の経験則でわかっている。

 以前シノさんに筆記用のペンの主流がボールペンになる以前、万年筆だった時代にはペンは人から借りてはいけない物だったと聞いたことがある。本人の書き方に合わせて磨耗したペン先に、一度他人の手で違うクセがつくと、もう戻らないらしい。

 万年筆というもの自体に触れたことの無い小熊がよくわからないと言うと、シノさんは工具箱からハンマーを取り出して「これと同じだ」と言った。確かに柄のしなり具合や打撃面の変形を手が熟知したハンマーを、小熊は絶対に人に貸さない。


 小熊は書類にサインしながら、自分の手の内にあるペンを見た。いつもカブのパーツを買っている部品屋で、タダで貰ったプラステイック製のノック式ボールペン。小熊はバッグに入れているペンも、部屋のデスクで使っているペンも貰い物で済ませていた。シノさんの店に行けば、納入業者が置いて行ったペンが幾らでもある。

 機能的に必要充分だし、何より軽いことを気に入っていたが、小熊はその軽さが少し気になった。重要な書類への署名に、タダで貰ったプラスティックのペンは相応しくないように思う、書くサインまで軽くなるんじゃないかと錯覚させられる。

 そう思わされたきっかけは、礼子がこれから自分の責任で、重要な書類を書くことが多くなる椎に贈ったソブラニーの銀のペン。小熊も大学進学等で、署名や書類作成の用は多くなる。そういえば夏の富士登山で知り合ったバイク雑誌編集者は、給料の高価そうな服装に相応のクロスの金張りのペンを使っていた。

 なんでも軽ければいいものではない。物にはそれに相応しい重さもまた重要になる。チタンやアルミで軽量化を競うバイクの部品だって、適正な車体バランスのためにあえて重いパーツを使うことがある。クリスマスの贅沢で自分の体重が増えたことへの言い訳では無い。


 契約を終えた小熊は、お楽しみにしていたホンダVTRの試乗が、当のバイクが突然の依頼による出動をしたため中止になり、用を終えて甲府の事務所を辞した。そのままカブで中央市の大手古書店系リサイクルショップに向かった。

 数日前にここに来た時に目を付けていたペンは幸いまだあった。フィッシャー社のスペースペン。NASAの依頼で開発された、独特の構造によって無重力下でも書くことが出来るペン。インクの耐久性が極めて高いことから、宇宙飛行士だけでなく軍人や冒険家にも愛用されている。

 ネットのゴシップ記事では、アメリカは莫大な費用をかけて宇宙でも使えるペンを開発したが、ソ連は鉛筆を使ったとも言われているが、実際はソ連の宇宙開発局は、導電性が強く電子基盤の事故を引き起こす危険のある鉛筆ではなく、このスペースペンを発売以来定期的に購入している。実際の宇宙船内で米ソの宇宙飛行士がよく使ったのは、重力ではなく毛細管現象でインクを出す日本のマジックペンらしいが。

 何よりスペースペンは、ヨーロッパブランドより低く見られがちだったアメリカの文具メーカー全体の価値を引き上げることに貢献した。

 リサイクルショップの中、宝飾品や高級時計と同じ扱いでガラスケースに入ったスペースペンを、店員に出して貰った小熊は、そのままお買い上げしてしまった。中古ながら未使用品がネット通販で見た新品価格の半値なら、得したといってもいいと自分に言い聞かせる。きっとバイク便のバイトが決まったことで、気が大きくなっていたんだろう。

 店を出た小熊は、箱から取り出したスペースペンを手で弄んだ。このペンが宇宙で使われた証明のような、スペースシャトルの装飾に指で触れる。

 タングステン合金のペン軸は、その用途に相応しい、程よい持ち重りを感じさせた。 

 

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