第11話 スーパーカブ・エクササイズ
去年よりだいぶ充実したクリスマスが過ぎ、年の瀬が近くなった頃、小熊の身に危機が訪れた。
高校に入って以来何かと波風の多い暮らし。今も数ヵ月先に控えた卒業の後に住む場所が無いという問題を抱えている。他にもカブを整備する工具が足りないとか、そろそろ後ろのタイヤが終わりそうとか、些細な問題は入れ替わり立ちかわり訪れ、金欠問題のように慢性的すぎて古い友人のように馴染んでしまったものもある。
小熊はそれらの問題に出くわすたび、自らの才覚と意思で乗り越えてきたが、スーパーカブがその助けになったのかどうかはわからない。
問題の半分くらいはスーパーカブが引き起こしたものであるような気がするけど。小熊にそれらを解決する能力を与えてくれたのは、間違いなくスーパーカブという存在。
現在の自分が見舞われているトラブルは、果たしてスーパーカブのせいなんだろうかと思いながら、小熊はウエストにきつく食い込むようになったデニムパンツを見下ろした。
身に覚えが無いわけでもない。先日のクリスマスパーティーでは肉とデザートを飽食し、普段の食生活も、カブの整備に関する出費が落ち着いたこともあって、恵まれたものになりつつあった。
どんな物にも代償というものがあるらしく、そのツケが小熊の腹回りに巻きついている。
それまでの小熊は、同級生女子がよく話題にしているダイエットの類には縁が無かった。特に部活や趣味でスポーツの類をしてはいなかったが、普通の物を食べていつもと変わりない生活をしていれば、体重の変動はほとんど無かった。
通学や買い物が自転車頼りだったせいかもしれない。そういえば、カブに乗るようになって以来、自転車にはあまり乗らなくなり、歩かなくなった。
礼子はたまに彼女の暮らすログハウスに置いてある体重計に乗り、思わぬ体重増加があると「バイクの軽量化は乗り手から」と言いながら家にあるサンドバッグを打ったり、周辺の未舗装路をジョギングしている。
八十kgの車体に乗り手の重みが加わる負荷が、数kg増減しただけで変わるものなのかとも思ったが、礼子の話では重くなると加速も最高速も僅かながら落ちるらしい。そのために礼子は高価い金を払って軽量なチタンショートマフラーに交換し、キックペダルやステップをアルミ製の社外品に換えて軽量化している。
よくわからない様子の小熊に礼子は「米袋をひとつ余分に積めば変わるでしょ?」と言っていたが、やっぱりよくわからない。
椎は逆に生活が不規則になるとすぐに体重が落ち、それに伴って体力も落ちてしまうので、自分自身の目標としている体重を下回らないように気をつけているらしいが、小熊とスーパーカブに出会って以来、体重が減って体調を崩すことが無くなったらしい。
それが本当なのか椎の贔屓目なのかはわからないけど、椎は小熊や礼子と昼食を共にするようになって以来、食欲旺盛になった気がする。
慧海は体重の増加や減少の悩みとは無縁だろう。きっと彼女は服を着替えるように、自分の必要とするスタミナや敏捷性に必要なだけの肉体を身に着けることが出来る。
とりあえず小熊は、少し苦しい思いをしながらデニムパンツのボタンを留め、ジッパーを締めた。同じデニムのジャケットを身に着ける。こっちもきつくなった気がする。
このままではデニムを買い換える羽目になる。母が気まぐれに買い、失踪の時に置いて行ったリー・ライダース101のデニム上下は、買い直すとけっこう高価い。カブだって礼子の言葉を鵜呑みにするなら、体重の増加はそのまま燃費の低下に繋がる。
小熊はダイエットしてもう少し体を引き締めようと思いながら、具体的にどうすればいいのかわからず、とりあえず問題を棚上げにした。これから年末年始を控え、小熊が登録しているバイク便会社からバイトのお誘いがあるだろう。そこで働けばきっと痩せる。礼子からは、労働というものは運動量の割りにダイエット効果が全然無いと聞いたけど、それは信じないことにした。スポーツジムに金を払うくらいなら、運動をしつつ金を稼ぐほうがいいに決まっている。
小熊が見て見ぬふりをした問題を解決するきっかけは、早くも次の日に向こうから飛び込んできた。幸運とも、不幸ともいえる出来事。
年末の早朝。醤油が切れたのでカブに乗ってコンビニまで買いに行った帰り、清冽な冬の朝の空気が気持ちよかったため、須玉の市街地までカブを走らせていたところ、信号待ちからの発進で突然カブが動かなくなった。
エンジンが止まる寸前の兆候から、トラブルの原因はだいたい察しがつく。電装系の故障。まだ暗い路上で、明かりの使える自販機にカブを寄せた小熊は、しゃがみこんで詳しい原因を探る。
すぐに故障部位は明らかになった。プラグコード。コードとコイルをつなぐ接続部分が切れ、コードが垂れ下がっていた。
秋にプラグコードの断線に見舞われた時、コードは新しく換えたが、コードに接着固定されていて分離出来る構造になっていないコイルを無理に引き剥がし、新しいコードをコイルに繋いでからビニールテープで固定したところ、寒暖差や雨水、走行中の振動でテープが剥がれ、コードが抜けていた。それだけなら抜けたコードを差し直せばエンジンは再始動できるが、コードが抜けた時にコイルの電極部分を破損させてしまったらしく、再接続が不可能な状態。
これは出先での修理が不可能。家に持って帰らないと直らない。コイルなら家に帰れば解体屋で買った予備があるけど、その家まで帰ることが出来ない。
小熊がこういう時にバイクを運ぶトラックを借りている中古バイク屋のシノさんはまだ寝ているだろうし、先日通販の支払いを容易にするために作ったネットバンク系のクレジットカードは、ロードサービスのオプションもあったが、有料だったため加入していない。
カブを家まで運ぶ術は無い。このまま動かないカブの横で途方に暮れていてもしょうがない。小熊は問題を解決すべく動き出すことにした。スマホを取り出して現在位置を確認した小熊は、カブのハンドルを持ちスタンドを上げ、そのまま押して歩き始めた。
須玉から日野春の自宅アパートまで五km。途中の道はカブで走って熟知しているし、急な坂は無い。歩いても一時間少々の道のり、カブ一台くらい押して歩けないことはない。そう思いながら小熊は、カブを押し続けた。
ようやく日野春の駅が見えてきた時。零下の気温の中で小熊はシャツ一枚で汗をかいていた。
カブを押して歩くのがこれほど大変だとは思わなかった。プレス鉄板の車体は重く、横に飛び出したステップに何度も足をぶつけた。もっと楽な押し方があるんじゃないかと思い、片手でキャリアやサドルを持ったり、ハンドル回転軸のステム真上にあるメーターに手をかけて押したりしたが、結局両手でハンドルグリップを持って押すのが一番マシだった。
カブで走っている時は意識しなかった緩い上り坂は、押して歩くと車体の重さが体に試練を課し、下り坂も楽になると思いきや、勝手に進もうとするカブにブレーキをかけながら押すのは平地で押すより疲れる。
バイクに長く乗っている人間の多くが、一度や二度は家まで押して帰ったことがあるという。バイク以外身一つしか無いような高校生も、トランポと呼ばれるバイク輸送用のトラックやバンを持っているような富裕なバイクマニアも、不思議なことに等しく過去にそういう経験をしている。
まるで必然のめぐり合わせであるかように、トランポもロードサービスも使えない状況がやってきて、バイクに乗る人間の性なのか自己過信なのか、よしやったろう!と押して歩いてしまう。小熊もその一人になってしまった。きっと礼子は過去にそういう経験を済ませているんだろう。
日野春駅近くのアパート駐輪場にカブを置き、部屋に入った小熊は床に倒れこんだ。カブによってもたらされた労苦。でも、カブがまたしても自分の抱える問題事を解決してくれたのかもしれない。そう思いながら、小熊は自分の腹を撫でた。
きっと今日はカブのおかげで、クリスマスディナー分くらいのカロリーは消費できた。
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