第30話 最後の部品

 屋内保管のおかげか、モトラの車体を構成する部品に欠品や致命的な劣化は無く、小熊と礼子の作業で順調に新車時の姿を取り戻しつつあった。

 一台のバイクの整備を二人同時に行うことは、同時進行する別の作業を自分の目で見ることなく進めることになるので、確認の見落とし等のリスクがある。どんなに互いの作業をチェックするようにしていても、その作業工程までを把握出来るわけではない。

 小熊と礼子の二人でカブの整備をする時は、一人が作業者になってもう一人は工具出しや部品の準備などのアシストに回ることが多いけど、今回の整備は丁寧な作業と同じくらい、速さと手間の少なさが重要になる。


 小熊にも礼子にも予定があって、時間が来たら作業を止めて帰らなくてはいけない。その時に安全に気を使い丁寧に作業した組み立て途中のモトラを渡しても、史が残りの工程を自分で行えば、それはとても危険なモトラになる。それなら手っ取り早く作業したモトラのほうが、安全性の足し引きはプラスになる。

 年を取った整備のベテランなら、命は買えないとか安全に勝るものなしとか、苦言の一つも垂れるであろう考え方。それは正しいことだけど、シノさんの店に出入りするようになって同年代の高校生バイク乗りのことを知るようになった小熊と礼子には、老人の説く正しさとは別の倫理がある。


 室内で保管していたモトラもゴムの劣化は避けられず、キャブとエアクリーナを繋ぐインシュレーターと呼ばれる継ぎ手は、エア漏れを発生させていたものをビニールテープを巻いて直した。タイヤも製造年の古いタイヤの強度低下がどこまで進行しているか未知数ながら、肉眼で見えるようなヒビ割れは無いので、バルブのゴムだけ替えてそのまま空気を入れた。

 史のお小遣いがこのパーツの新品が買えるくらいまで貯まり、交換作業の目処がつくまで待っていたら、高校生の時間はあっという間に過ぎていく。

 小熊と礼子なら、遠い未来じゃなく今乗るために危険を冒すことを選ぶ。壊れたカブで走ることは出来ないけど、壊れる危険性を承知で乗るくらいのことは出来る。

 史もそうなのかどうかはわからないが、史は自分の命に自分で責任を持つと言った。ならばこのモトラに乗るかどうか選ぶのは史。


 電装は史の乗り方や街灯の少ない近辺の道路事情を考え、6Vから12Vに換えたが、いくつかの電装部品を礼子の手持ち予備と換えただけで、ハーネスと呼ばれる車体電装の配線を束にした、電装の中で最も高価な部品は、モトラに元々付いていた物のコネクターを加工するだけで使えた。礼子が念のため持ってきたハーネスは、事故車から剥いたものを直したらしく、あまり状態が良くない。

 小熊と礼子は各々モトラの前後に座り込み、足回りを組みつけた。劣化し固まったグリスだけ換え、見た目でまだ大丈夫と判断したベアリングやメタル類、ブレーキ部品はそのまま使う。電装を取り付け、エンジンを載せ、キャブレターやエアクリーナー等のエンジン補機を装着する。


 このモトラが不動になった理由は、小熊がキャブレターを分解している時にわかった。ガソリンを中途半端に入れたまま長くほったらかしていたバイクのエンジンをかけたところ、劣化したガソリンに発生する不純物や、タンク内の錆を吸い込んだキャブが詰まりを起こし、そのまま始動不能になったんだろう。ガソリンタンクを見ていて同じ結論に達したらしき礼子と顔を見合わせる。

 タンクが錆び、スラッジと呼ばれる不純物がキャブに回ったバイクは、通常のバイクユーザーにしてみればどうやっても動かず、修理に出してもあちこちの部品の分解と交換が必要になるため、廃車にされることの多い厄介者だけど、小熊や礼子のような自分で整備し、解体屋の不動バイクを日常的に見ている人間にとっては、簡単な洗浄作業で蘇る優良個体。キャブの詰まりで動かなくなったバイクは、多くの場合、エンジン本体や変速装置、フレームなど、修理交換に金のかかる部分が無傷のまま。


 礼子は腐ったガソリンの詰まったタンクを洗浄している。小熊としてはエンジンを載せる前にやってほしかったところだが、思ったより早く作業が進んだらしい。タンク内は錆の進行が深ければ、塩酸で強引に錆落としして洗浄し、錆び止めを施さなくてはいけない。塩酸は家庭用のトイレ掃除クリーナーで、洗浄に使うアセトンも錆び止め剤も塗装屋で買えば安く、それほど金のかかる作業ではなかったが、時間と手間がかかる上にすごく臭い。

 モトラは雨ざらしでなかったことが幸いし、錆が軽度だったので、中のガソリンを抜いて灯油で洗い、初期錆びの除去と錆び止めを同時に出来る亜鉛系のクリーナーを使っただけで綺麗になった。


 ガソリンタンクとキャブを繋ぐゴムホースは小熊がメートル幾らで買った新品を切って使った。新品といっても新古品で、小熊が出先で偶然寄ったリサイクルショップに置いてあったもの。車やバイクに使われる耐油製ホースは、バイク部品を扱った経験がほとんど無いらしき家庭用品中心のリサイクルショップで、捨て値同然で売られていたので、ホース交換の予定は無かったけど買っておいた。

 ブレーキやスロットル等のワイヤー類は、元からついていた物を、ワイヤーインジェクターというワイヤー専用の給油工具で油漬けにして組み付けた。ブレーキはしばらくワイヤーに給油していない礼子のハンターカブよりずっと動きが滑らかになった。


 メーターやミラー、テールランプ等の細々とした部品を取りつけ終えた小熊と礼子は、灯油の染みた雑巾で車体を拭き、バイク用のコーティング剤として優秀なシリコンスプレーを吹きかけて磨き上げた。改めて見てみると、この黄色いモトラは塗装もメッキも状態が良く、このまま中古車屋に置いたら、結構な値段がついていても違和感が無い。

 床屋が調髪の最後に客の髪を丁寧に整えるように、あちこちからモトラを見ていた小熊と礼子が頷く。ずっと作業を後ろから見ていた史が声を出した。

「終わりましたか?」

 小熊は腕時計を見て、作業時間の終わりが近づいたのを確かめながら答える。

「まだ」

 礼子がエンジンを覗き込みながら言った。

「プラグが死んでるなんて予想外ね。わたしも普段は予備プラグくらい持ってるんだけど、今日は無いのよ」


 慧海がモトラの前にしゃがみこみながら言う。

「そのプラグという部品があれば走るようになるのですか?」

 小熊は慧海の顔を見返しながら言う。

「走れるけど、走れない」

 慧海は謎解きのようなことを言う小熊を興味深げに見ている。答えは礼子が言ってくれた。

「史ちゃんがこのモトラで走るには、免許を取らなきゃね、それからこのモトラを登録してナンバーを貰うこと」

 さっきまで自分のバイクとして蘇っていくモトラに興味を示すような素振りを見せていた史の目に、怯えの色が過ぎった。

 

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