第29話 史の気持ち

 二人がかりで一斉に部品を取り外されたモトラは、あっという間にバイクとしての形を失っていった。

 小熊が倉庫の中で見つけて仮止めしただけの前後足回りとハンドルが外され、シートやステップ、マフラー等の付属品が剥かれ、ボルト二本だけで車体に固定されたエンジンが下ろされる。

 鉄板とパイプフレームの車体だけになったモトラは、その車種を知っている人間でもない限り、農業か建築に使う機械にしか見えない。

 色も重機と同じ黄色。これでもモトライエローという専用色。純正色にはもう一つモトラグリーンと呼ばれる色があって、こっちは兵器に使われるオリーブグリーンと同じ色。

 重機と兵器。男の子の感性に響く二つの機械を模したモトラが、どうして商品としては短命に終わったのか、礼子にはわからない様子だった。小熊は実際に分解してみて少しわかった。これはバイクとしては小さいが、玩具には大きくて重すぎる。


 年齢、性別を問わず男の子の心を宿す人間にとって、維持するだけで金と手間のかかる原付というのは、オモチャを欲しがる心だけで持ち続けるには負担が大きいんだろう。だからこのモトラも捨てられた。それがいい年してオモチャで遊ぶ子供から大人になるということで、正しいこと。

 今、小熊と礼子はこのモトラを無償で直している。慧海の前でいい顔をしたいとか史への興味とか、後付けの理由は幾らでもあったが、道義に見合ったことや効率のいいことを求める世の中の大きな流れから振り落とされモトラを見た時、体が自然にそういう方向へと動いた。


 小熊と礼子の作業を、史はただ見ていた。作業に意識を集中させていると、感情とか生命力とか、そこに生きた人間が居るという実感の乏しい姿の史は、ヒトの形をした立ち枯れの木か何かのようにしか見えない。

 慧海も特に何かすることなく、小熊と礼子の邪魔にならない場所に居る、慧海は自分が必要とされる時まで、ただ待っていることを苦痛に感じない。小熊はリラックスした様子の慧海を見ながら、もし自分が作業中に何か危険な目に遭ったら、きっと慧海は一秒の何分の一かでやってきて、自分を安全圏まで引っ張ってくれるんじゃないかと思った。それで充分だった。


 バイクの整備についてはよく知らないながら、小熊と礼子の無駄の無い作業を興味深げに見ていた慧海が言った。

「写真を撮るんですね」

 小熊も礼子も、さっきから部品の取り外し作業が一区切りするたびに、横に置いていたスマホで画像を撮影していた。既にスマホは他の工具同様に、油まみれの手で触られあちこちが汚れていた。

 自分のモトラを直す場で、何の役にも立っていないことに申し訳なさを感じているらしき史が、手伝えない作業の代わりなのか、会話に参加してきた。

「日記みたいに後で見返すんですか?」

「違う」


 小熊はつい普段バイクをわかっていない奴に何か言われた時のような反応をしてしまった。史が申し訳無さそうに体を縮めている。

 作業をしている間も無駄なお喋りが多く、今日も騒がしい礼子が笑いながら言う。

「赤ちゃんみたいに写真に撮って、アルバムに保存してインスタに上げるのよ、わたしの可愛いモトラちゃんで~すって」

 慧海の手前もあるので、何か史を気遣うことを言おうとした小熊も、肩を震わせる。ベビーベッドの中でタオルにくるまれたモトラを想像してしまった。笑いを噛み殺しながら締まらない声で史に説明する。

「後でこの箇所を組み立て直す時に、部品の組み合わせがわからなくなった時は、分解する前に撮った画像を見る」


 バイクにはプラモデルみたいな説明書は無く、サービスマニュアルやパーツリストは必ずしも万全では無い。時に知恵の輪みたいに組み合わされた部品を元通りにする方法がわからなくなった時に、どうしたらいいのかがわからず、ネットの画像検索や個人サイトの整備記で漁った一枚の画像が救いになることはよくある。当然、事前に自分で撮っていればもっと確実。

 愉快そうに笑う慧海の横で、史は妙に納得した顔をしている。小熊は学校の先生になってありがたい知識を授けた記憶は無い。人の話を鵜呑みにしてはいけないことも今度教えようと思った。ちょうど言ったことを信じるとロクなことにならない奴の筆頭が、小熊の向かいで作業をサボり、自分とモトラの画像を自撮りしている。きっとこのモトラは新しく買った自分のバイクとかウソの自慢でもする積もりだろう。

  

 概ねの部品を剥いた小熊と礼子は、外された部品の中で再利用出来るものを選別した。概ねそのまま使っても問題ないような物ばかり。礼子が持ってきたカブのエンジンも、駆動チェーンの位置が異なるモトラに載せるために必要なオフセットスプロケットも無用に終わったが、礼子は満足そうだった。カブとモトラの最大の違いである副変速機付きのギアボックスを変えたくなかったらしい。この副変速機が、モトラの市販車最強と呼ばれる登坂力を生み出すらしい。

 礼子は出来れば内部も開けて分解してみたかったらしいが、まだそんなに走行していないモトラだから、灯油で内部洗浄するだけで充分と小熊が出張し、そのまま手を付けずに済ませることにした。変速機の納まったクランクケースまで開ければ、時間も必要な部品も大幅に増える。


 修復の必要よりも好奇心で、バラして中を見てみたいと思っているらしき礼子が言った。

「クランクメタルだけでも換えたいけどねー、走行中に焼きついたら命取りよ」

「誰の命だ?私のじゃないぞ」

 慧海の表情が変わる。一歩踏み出して小熊のすぐ後ろに立った慧海は、いつも通りの冷静沈着な声で言う。

「小熊さん、史の身を危険に晒すようなことは慎んでください」  

 小熊も慧海の静かな迫力に圧され、一度は手を付けないと決めたクランクケースを開けようかと思った。メタルは礼子が持ってきているし、分解組み立てをする時に必要になるガスケットは、モトラの専用品は入手困難だけど、確か自分で切り出して作るガスケットシートが家にあったから、それで自作すればいいだろう。


 小熊は自分の手がクランクケースを分割する工具に伸びかけた時、史が真後ろに居る事に気づいた。

「小熊さんがいいと思った方法でお願いします」

 今までの史なら、小熊は背が触れるほど近くに立たれても気づかなかった。人の気配の無い存在を知覚することは出来ない。今の史からは、ほんの僅かながら感情や息遣いを感じられた。

「わたし、バイクのことはわかりません。でも、自分の命くらい責任を持てます」

 礼子が立ち上がり、小熊の手からエンジンを受け取りながら言った。

「人間はね、ハイハイする方法とバイクに乗る方法は、誰かに手を取って教えてもらわなくてもわかるのよ」


 慧海が一歩退き、頭を下げながら言った。

「出過ぎたことを言いました」

 小熊は作業を続けながら言う。

「バイクに乗る人間は出過ぎた人間ばかりだから、今さら気にならない」

 そう言いながら振り返り、史を見る。さっき感じた人の気配は消えていた。やはり後ろに居るのは幽霊か。

 礼子がモトラのクランクシャフトのあたりを指しながら言った。

「クランクメタルが焼きつくとね、ここがミシンみたいな音をたてるから、そうなってから交換すればいいのよ。もし焼きついてクランクロックしても、カブとかモトラのスピードならたぶん死なない」


 そこらの悪霊よりずっと有害な奴の言葉を聞いた小熊は「嘘つけ」と思ったが、確かにバイクに乗るようになると、それくらいの危険性は対策を施すなり、見ないふりをするなりして自分の中に呑み込めるようになる。

 史もそうなるのかも、あるいは、小熊が自分の今までの経験で得たバイクに乗る人間の基準とは異なる、小熊の想像の範囲外の存在になるのかもしれない。

 人の心理や行動など、曖昧なものについて考えさせられた小熊は、どんな外的要因があろうと変わらない事実を教えてくれる数少ない物だと思っているカシオのデジタル腕時計を見た。時間はまだ午前の半ば。

 これから組み立てを始め、昼までにこのモトラを蘇らせる。

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