第28話 作業開始
家に帰った小熊は、とりあえずスマホのコミュニケーションアプリを使って、冬休みの間バイトをしているバイク便会社の浮谷社長に、明日の午前は出られないと伝えた。
送られたアプリのメッセージをすぐに読んだらしき社長が電話をかけてきた。明日は年末年始によほど散財し懐が淋しくなったのか、早くも正月休みから復帰してくるライダーが何人か居るので、小熊が出るのは昼下がりからでいいらしい。
浮谷が事情を聞いてくるので大雑把に説明したところ、浮谷も興味を持って参加したがっていたが、明日予定されている仕事のうちの幾つかは年始の挨拶を兼ねているので、社長が居ないと回らない。
社長は働いてくださいと言うと、浮谷は少しふてくされながらも仕事に専念することにした様子。それからもなかなか浮谷がなかなか電話を切ろうとしないので、小熊は伝え忘れていたことを言った。
「お正月だからってこんな時間まで夜更かしして、悪い子」
小熊に叱ってほしくて話を引き伸ばしていたらしき社長は、満足した様子でもう寝ると言って電話を切った。
小熊は深夜過ぎに眠ったにも係わらず、真冬の遅い夜明けが訪れる前に目が覚めた。
友達の友達が乗るモトラの整備を手伝うという、遊びというより義理で受けた面倒な作業に、なぜか気持ちが昂ぶっていたのかもしれない。
一月二日に見た夢のことを初夢と言うらしいが、小熊はさっきまで見ていた夢が何なのか記憶が曖昧だった。脳の表層近くにある夢という情報ファイルが、今すぐ保存作業を行わないと消えてしまいそうになっている。
ベッドの中で夢の内容を思い出そうとした小熊は、夢のデータ救出作業を中断し起き上がった。今朝はやらなきゃいけない事が多すぎる。シャワーを浴びながら、これから行う作業の内容を頭の中で整理する。午前中に史の家に行って、モトラの整備を済ませなくてはいけない。
夢ならそこで見ればいい。
デニムの上に作業用のツナギを着て、夜明けの澄んだ冷気が肺と目にしみる屋外に出た小熊は、カブで行くか借り物のVTRで行くか少し迷ったが、結局カブの荷物ボックスに工具等の必要な物を放り込んだ。
それほど大物の荷物を運ぶ用が無いならVTRは不要だし、世間が正月休みを過ごしている早朝の個人宅にバイクで乗りつけるのは無用な風当たりを産むこともあるが、そういう時に新聞や郵便の届く音と共に皆が聞きなれたカブのエンジン音は、不思議というか必然というか苦情の類を受けることが無い。
カブで走り出した小熊は、昨日より低くなった気温に気づき、ツナギの上にもう一枚着てくれば良かったと少し後悔したが、寒さについて考える間もなく学校と椎の家の中間くらいの場所にある史の家に着いた。立派な門の横にある呼び鈴を鳴らすと、すぐに史の父が門を開けてくれた。
史が出てこなくて良かったと思った。ただでさえ寒さで心臓に負担を受けているのに、目の前に幽霊が現れたりしたら、カブがびっくりするかもしれない。
史の父親が朝食の準備が出来ているというので、小熊もご馳走になることにした。
居間にはもう慧海が来ていた。隣には史が座っていて、慧海にお茶を淹れてもらっている。小熊はやっぱり史に出迎えて貰ったほうが良かったと思った。礼子はまだ来ていない。早起きを期待しても無駄な相手だということはわかっている。
史の父が作ったというご飯とジャガイモ、ニンジンの味噌汁、鯵の干物と青菜の胡麻和えの朝食を薦められ、遠慮なく頂いた。以前は糧食班にヘルプで入ったこともあるという史の父の作る料理は美味しく、特に野草の胡麻和えが気に入った。
「アカザというんだ。日本のどこにでも生えている繁殖力の高い野草で、ホウレンソウの原種だが、味も歯ごたえもホウレンソウよりいい」
とりあえず大学生活で食うに困ったら、そのアカザという野草を煮て食べればいいと思いながら朝食を終えた小熊は、慧海と史と共に史の家から徒歩五分ほどの場所にあるコンテナに向かった。史の父親も手伝おうかと言ってくれたが、、小熊は史の父親が朝食の時も自分の横に楽譜とマックブックプロを置いているのを見て、正月休み中も音楽隊の仕事が多忙であることを察し、私たちだけで充分ですと伝える。
小熊がカブを押しながら県道を歩いていると、史の家からトロンボーンの音が聞こえてきた。口数少なく史の抱える問題の解決に際しても積極的に行動しようとしているようには見えなかった父親が、自分に出来る限りの応援をしているようにも思えた。
それとも単に女の子たちから爪弾きにされて悔しい気持ちを慰めているだけかもしれない。居間に何枚かの写真が飾られていたが、音大のオーケストラで金管を吹いている姿や、純白の自衛隊制服に身を固めている姿を見るに、若い頃は黙っていても女が集まってきそうな感じをしていた。今はといえば写真から伝わってくるような色気は感じられず、枯れた文学者のようにしか見えない。ただ、世の中にはそんな姿がいいという女も結構多いらしい。
小熊たちが到着した頃、礼子のハンターカブが騒がしい音と共にやってきた。遅刻を悪びれる様子も無い礼子は、さっそくハンターカブの後部に取り付けたボックスから工具やケミカル類、プリントアウトの入ったファイルケースを取り出す。
これから二人でモトラの修復を始める。今までカブで経験してきた整備と違うのは、時間もお金もかけられないということ、小熊は後ろに居る慧海と史を振り返って言った。
「私がこのモトラを直せるのは、今日の昼まで」
礼子もあくびをしながら言う。
「わたしもー!昼からパーツ屋に行くから」
何事にも明瞭な答えを求める慧海が小熊に聞いた。
「昼までに直りますか?」
横で困ったような顔をしている史を一瞬見た小熊は答えた。
「やらきゃいけない事は昨日確認した。その時間に終わらせるために準備してきた」
曖昧でいい加減な性格が服を着て歩いているような礼子がハンターカブの後部から一番大きな荷物を取り出しながら言う。
「最悪エンジンが死んでたらこれに取り替える。電装もね」
礼子が取り出したのはカブの五十ccエンジン。たぶん彼女の暮らすログハウスに転がっていた中古エンジンから、適当なものを見繕ってきたんだろう。
バイクのエンジンを交換する作業を、目覚まし時計の電池を換えるかのように話す礼子のことを、史は靴屋が眠っているうちに靴を直す妖精を見るような目で見ている。小熊もカブの整備をまだよく知らなかった数ヶ月前ならばそんな気持ちだったかもしれない。慧海は礼子が手渡したスーパーカブのエンジンを片手で抱えながら聞いた。
「これは動くのですか」
慧海は自分にとっては専門外の機械より、バイクのエンジンというものが手で持ち上げられるほど軽いというのが興味深いらしい。
「たぶん動くんじゃない?」
小熊は礼子のいい加減さに笑い出しそうになりながら、一緒に持ってきた電装ハーネスを確認する。こっちも配線のあちこちが継ぎはぎだけど、うまく通電しなかったらその時はその時、テスターにかけて断線している箇所を直せばいいと思った。礼子のいい加減な思考が伝染りつつある。それともこれが機械の円滑な動きに必須の「遊び」と呼ばれる冗長性のことかもしれない。
コンテナの前にあったコンクリート敷きのスペースを作業場と決めた小熊と礼子は、コンテナの中からモトラを転がしてきた。慧海は小熊と礼子の動線の邪魔にならない場所に雑巾を敷き、片手で持っていたエンジンを置く。
小熊と礼子は互いの作業に適した位置に座った。工具箱を開き、モトラ修復の作業を始める。
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