第41話  茅台酒 

 世の中には料理の美味さと居心地の良さが反比例する場というものもあるらしい。

 小熊は赤いライチの皮を歯で剥き、芳香と甘みを味わいながら思った。

 話を聞いて欲しいと言いつつ、断りにくい雰囲気を作る、レクサスの女は拒絶の返答など全く考慮していない様子で喋り始める。

 今まで食べたことの無いほど美味なアメリカン・チャイニーズ料理の飯代だと思って、ただ黙って聞いていれば、それほど長引くことなく終わるだろう。うっかり外れのアニメ番組を見始めしまったと思えばいい。


 小熊が頷いたのを見て安心した様子のレクサスの女は、小熊ほど綺麗ではない仕草でライチを食べている。別の視点から見れば女性らしく官能的とでも言うのかもしれない。

 紺色の絹で出来た中国服の店員が茶器を取替えにきた。レクサスの女は店員に言う。

「マオタイ酒と氷を」

 店員は頷いて引き下がる。小熊はもしかして自分がこれから課される強制視聴はアニメ一本分じゃなく、劇場映画になるのかもしれないと思い始めた。


「あなたは何にする?ここのマオタイ酒はおすすめよ、えーと」

 レクサスの女が小熊を見ながら、どう呼べばいいのか迷うような仕草を見せた。

「小熊でかまいません。飲み物はお茶で」

 自分が未成年だとか法律で禁じられているという問題は、今目の前にある危機を逃れるためなら無視していいものだと思っているが、小熊はカブの操縦能力を落とすような物は飲みたくなかった。目の前の女はどうだろうかと思ったが、きっと客が酒を頼んだ時点で必要な手配をしてくれる類の店で、自分で運転代行やタクシーを呼んだり、車を預かってもらうよう頼む必要は無いんだろう。無論小熊は、知らない店の知らない人間にカブを預ける気など無い。


 さほど待たされることなく、白い陶器の二合瓶が、氷の満たされた銀のペールと共に届けられる。小熊は椅子から腰を浮かし、添えられていたクリスタル・グラスを手に取る。カット仕上げの手に食い込む鋭さからして高価そう。グラスに氷を落とし込み、マオタイ酒の栓を抜いて、以前バイク便の仕事でワイナリーに行った時に嗅いだ、熟成中の白ワインを思わせる香りの液体をグラスに指二本分ほど注ぎ込む。

 レクサスの女は「ありがと」とだけ言ってグラスを手に取り、言い添えた。

「あなたは将来もてるわよ。今もそうなのかな?」

 小熊としては早く話しを始めて、そして終わらせてほしかったので、催促をする目的で、口と脳の潤滑油になるものを注いだだけ。小熊はレクサスの女の問いには答えず、自分の竜井茶の入った茶器を手に取って、レクサスの女のグラスに軽く当てた。


 オイルとガソリンを兼ねているらしきマオタイ酒を数口で飲み干したレクサスの女は、お代わりを自分で注ぎながら言った。

「何の話だっけ?」

 小熊は日本の緑茶より色が淡く、渋みがまろやかな竜井茶を一口飲んで答える。

「あなたが藍地くんと呼んでいる男性についてです」

 レクサスの女は、二杯目のマオタイ酒を一口飲んでから言う。

「そう!その話!聞いてくれる?」

 面白く無い物語が往々にそうであるように、話の本題に入るまでの前置きが長すぎる。小熊は黙って頷きながら、あの女の飲んでいるマオタイ酒を一口くらい貰おうかと思った。

 

「藍地くんと私はね、大学のゼミで会ったの」

 小熊はお茶を啜りながら、随分手前から話を始めるなと思った。スターウォーズみたいに物語全体の途中から製作、公開してくれればいいのに。

「私はお父さまが教授をやっている大学の付属校に入学して、そのままお父さまのゼミがある民俗学科に進んだ。藍地くんは外部進学の奨学生で、お父さまの論文を読んでこの大学への進学を決めたって言ってたわ」

 小熊にしてみればどうでもいいような情報の中に、一つ耳を惹く話があった。専攻は民俗学。小熊はてっきり、何かをドロップアウトしてバイク関連の仕事をしている人間の多くがそうであるように、あの棒人間は工学か工業デザインを専攻していたのかと思った。民俗学は予想外。小熊が大学進学の時に、最も履修容易で落第リスクが少ないという理由で文学部を選ぶ前、候補に挙がったことがある学科。


「わたしはこれでも民俗学の成績と論文には自信があったわ。ちっちゃい頃からお父さまに地方風俗や風習の話を聞かされていて、わたしもそれを知りたいと思った。いつかを自分の目で見て、人に語り継いでいきたいと思った。民俗学はフィールドワークの数が物を言うの。わたしもいろんなところを見に行った。でも、藍地くんのフィールドワークは研究対象を観察するんじゃなく。そのものになる」

 確かに小奇麗なスーツ姿の女がレクサスのSUVで乗り付けても、口を開きたがる人間はそう多くない。でも、そうやって調べたことを人に教え授けるのは、きっと目の前に居る、人が聞きたくもない話を聞かせるような人種なんだろう。小熊は彼女が藍地くんと呼ぶ男の解体屋での姿しか知らないが、あの棒人間はそういう能力が致命的に足りていない。


「藍地くんのレポートはいつも凄かった。彼に比べれば私の論文なんてゴミだったわ。奨学生で何も持っていない藍地くんが、一つだけ持っていたホンダのオフロードバイクで、どこかに出かけるたびに、お父さまもゼミの皆も、彼が今までどんな研究者も明らかに出来なかった地方風俗の情報を持って帰るのを待った。でも、彼が無事帰ってくることを、最も強く願っていたのはわたし」

 話が小熊の苦手とする方向に進んできた。まぁつまらない映画みたいなもんだと思っていた話が、時間潰し程度にはなることがわかったので、小熊は忍耐強く聞き続けた。


「あの時の私たちは愛し合っていたと思う。藍地くんはいつも持ち帰ってきた資料を真っ先に私に見せてくれた。それを論文に書き起こしていたのは私。フィールドワークが終わるといつも抜け殻みたいになっていた藍地くんの下宿に、いつも食事を届けたのは私。修士課程が終わってからも大学に残るよう手配したのも私」

 それを恋愛関係と呼べるのか、小熊にはわからなかった。教授の娘で使い勝手のいい女を体よく利用されていたようにしか思えない。この女も彼のことを自分の望む形に押し込めようとしているからにはお互い様なんだろう。

 小熊の基準で、好意とか信頼を示す基準のひとつになっていることだけ聞いてみた。

「その藍地くんという男は、あなたをバイクに乗せてくれたことがありますか?」


 聞いた後で聞かなきゃ良かったと思った。レクサスの女は体を震わせ、グラスを握り締めながら声を絞り出す。

「何で、何でなの?藍地くんは一度もわたしをバイクに乗せてくれなかった!終電後に下宿まで行った時も、お金なんて無いのにタクシー代を渡して帰らせた。誰も乗せなかったのに、それなのに!あのアイヌの女の子を後ろに乗せて!」

 ダブルのマオタイ酒をもう一杯飲み干したレクサスの女の吐き散らした言葉を情報整理した限り、あの棒人間は大学時代フィールドワークのためバイクに乗っていた。車種の特徴から察するにホンダXLR250のBAJAモデル。

 小熊は多数あるバイクの中から、レクサスの女の「お目めが二つ」と聞いてすぐにデュアルヘッドライトを備えた数車種に特定できる自分に苦笑した。

 フィールドワークに必要な野宿道具を積みっぱなしのXLRに彼が人を乗せることは無かったらしい。それがある日、地方奇祭の犠牲になるところだった少女を後ろに乗せて、成城にある大学まで帰ってきた。


「藍地くんは今でもあの女の子の面倒を見ているらしいわ。きっと大学に帰って来なくなったのもそれが原因よ」

 単なる男女のもつれというか、厄介な女から逃げた話だと思っていたが、どうやら面倒事はそれ一つじゃないらしい。

 レクサスの女は一本目のマオタイ酒を飲み干した。

 小熊は店員を呼ぶための物らしき呼び鈴に手を伸ばしながら言った。

「おかわりを注文しますか?」

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