第45話 ロスタイム
小熊は冬山は刃物だという言葉を思い出した。
夏の山は温暖で快適で、レジャーを楽しむには最適な場所だけど、冬の山は体を動かしただけで肌を傷つける刃物となる。
その言葉が本当か、あるいは誇張かどうかなど、今の状況を見れば明らかにわかる。
かろうじて土が露出しているが、一日中凍り付いている地面。突き出された木の枝。左右に迫る雪の壁。いずれも硬く鋭い。
人の肉体などいとも簡単に切り裂く刃物に囲まれながら、小熊はカブで走っていた。
前方に雪煙が上がる。小熊は反射的にカブのブレーキをかけた。少しづつ、そっと、ブレーキミスでリアタイヤが滑り始めれば、そのままカブごと谷底へと滑り落ちる。
小熊のカブは、先行していた礼子のハンターカブのすぐ後ろに停車した。カブのスタンドが使える場所を慎重に見極め、サイドスタンドを出した小熊はカブを降りる。
既にハンターカブを降りていた礼子は、大きな斧を手にしている。小熊も自分のカブに括り付けていたシャベルを取り出しながら言った。
「倒木?」
「うん」
小熊と礼子が走っていた冬山の登山道路を、倒れた白樺の木が塞いでいた。
枝の無い針葉樹が一本横たわっていても、小熊と礼子の二人がかりでカブを持ち上げて通過できるが、小規模な土砂崩れでもあったのか。数本の木が重なり合って道を塞いでいて、このままでは乗り越えられそうになかった。
さっきからこんな障害物に何度も前進を阻まれた。文句を言っても無駄な熱量を浪費するだけだということがわかっていたので、小熊と礼子は斧とシャベルを使い、倒木を除去し始めた。
小熊は腕時計を見た。冬休みは昨日までで、今日から高校三年の三学期が始まる。今頃同級生は体育館での始業式を終えて、暖房の効いた教室に帰っているだろう。
刃物に囲まれたように危険な冬山の中で、小熊と礼子は冬休みのロスタイムを過ごしていた。
浮谷社長から電話がかかってきたのは、まだ夜が明ける前の時間だった。
スマホの着信画面を見た小熊は、浮谷からの電話を無視しようか迷った。新学期早々に遅刻などせぬように、早起きできる時間に寝た小熊も、早起きすぎる時間に電話で起こされたら不機嫌にもなる。
結局、電話をかけたからには用があるんだろうと思ってスマホを手に取る。浮谷は怠惰で杜撰だけど、自分と同じく他人も怠けものだと思っているので、人の仕事を邪魔することはあっても休みや遊びの足を引っ張ることはしない。
「小熊ちゃん?ごめんね、こんな時間に電話かけて」
最初の一言から小熊は違和感を抱いた。浮谷は普段より事務的で丁寧な口調で話し始める。
「今日からわたし、しばらく会社に居ないから。引継ぎとかは他の子たちに任せているけど、小熊ちゃんにも面倒をかけると思って」
小熊は寝起きの不機嫌な声のまま言った。
「なぜですか?」
短い沈黙の後、浮谷は他人事のように話し始める。心の中が色々な感情で決壊しそうな時に、人はよくそういう声になる。
「ちょっと、出かけなきゃいけなくなって。別に大した用じゃないよ。でも、行かなきゃいけないの」
ただでさえ電話で叩き起こされて不機嫌になっていた小熊は、浮谷に対して怒りを露わにする。
「わたしは浮谷社長のことをそれなりにわかっていると思っていました。道の上で信頼し合える人間だと、あなたは違うんですか?」
小熊の言葉に、浮谷は電話口で泣き出した。
「てっちゃんが、てっちゃんが死んじゃう」
小熊は取り乱している浮谷を落ち着かせ、彼女が話す言葉を残らず聞いた。
夕べ、地震があった。
少し強めの揺れと、スマホの緊急メールで小熊は一度起こされたが、アパートが崩れたり交通が混乱したりする恐れはなく、残念ながら明日の始業式が休校になることも無さそうなので、そのまま寝直した。
小熊の住む山梨北杜ではそれほど大きくなかった地震は、震源地の長野県に幾つかの被害を発生させた。
停電や家屋の倒壊、そして道路の寸断。県内の多くが山岳地帯の長野では、幾つかの町村で他の地域への往来が不可能になり、集落の孤立が発生し始めていた。
夜間にもかかわらず、県内外では救援体制が整えられたが、国内の別地域で起きた大規模災害から間もなかったこともあり、孤立の解消には到底人手が足りない状態になり、夜が明けてから本格化する救助活動は、到底人が足りない状態だった。
小熊がそう思ったように、浮谷もまた災害救助はその技術と装備を持ったプロがやることで、自分たち素人が何かしようとしても邪魔になるだけだと思っていた。浮谷のスマホに一本の電話が入るまでは。
浮谷には幼稚園から一緒に過ごした、てっちゃんという幼馴染が居た。
浮谷と同じ高校を卒業し、大学からは長野の国立大学で教職を取ったてっちゃんは、長野北部の黒姫高原にある小さな集落の分校に赴任した。
信州富士とも言われる黒姫山の裾野。リゾート地として有名な黒姫集落の美しい風土に魅せられ、分校でただ一人の教師になることを自ら希望したてっちゃんは、満たされた日々を過ごしていた。そこにやってきた地震で、平穏な日常は崩壊する。
集落の住人に人的被害は無く、避難所となった分校に皆が集まることが出来たが、集落と麓を結ぶ唯一の道路が崩壊し、復旧の目処が立っていないという。
電気も水道も、電話も止まる中、まだバッテリーの残っていたスマホでかろうじて自治体と連絡は取れたが、急病人の居る集落が優先される県の救助計画では、この集落まで救助隊が来るのに最短でも一週間を要するらしい。
麓の黒姫駅近辺に食料や日用品の購入を依存していた集落では、食料が尽きかけていた。水道が止まり、井戸水を汲み上げるポンプも停電で動かない中、分校の給水タンクに残された水もあと三日で空になる。
水なし食料なし、暖房すら使えない状態で、不安から体の不調を訴える人も出てきたが、医薬品も充分に無い。
浮谷に助けを求めてきたてっちゃんは、まだスマホのバッテリーが残っているのが救いだと言っていたが、通話は突然切れた。ニュースでは携帯の基地局が山間部を中心に被害を受け、通話不可能な区域が多数発生していると報道されていた。
親友を助けるため、浮谷は長野黒姫に向かうことを決意したが、その前に仕事の処理だけはしておこうと思い、自分のバイク便会社の従業員に連絡を入れた。期間限定のバイトをしているだけの小熊に電話したのは、浮谷の中に、根拠の無い希望があったのかもしれない。
浮谷から話を聞いた小熊は、迷わず言った。
「私も行きます」
これで浮谷が小熊の身を案じ、来ちゃいけないとでも言ったら、もう浮谷との関係はバイト先の社長、それだけで他に何も無いものと思っていたが、浮谷は電話口で泣き崩れた。
「ありがとう、小熊ちゃん、ありがとう、お願い、てっちゃんを助けて、お願い」
浮谷から地震の話を聞いて以来、ずっと険しい顔をしていた小熊の口元が綻ぶ。自分なりに優しい声で浮谷社長に言った。
「泣き終わったら準備を始めてください。今から待ち合わせて合流している時間はありません。現地の黒姫駅に集合しましょう」
小熊はスマホを切り、窓を開けた。この時間の北杜は刺すように冷たい風が吹く。黒姫はもっと冷たいだろう。小熊はスマホを操作して、入力順で一番先頭に表示された番号にコールする。
冬の早起きをこの世で最も嫌う礼子の声は、小熊に輪をかけて不機嫌だった。
「いい話?悪い話?悪い話なら殺してから聞く。いい話なら聞いた後で殺す」
小熊もそんなに時間が無い。とりあえずまだ半分寝ている礼子をさっさと動かさないことには準備を始めることさえ出来ない。
「夏に富士山に登った時、次は冬の山を登ろうと礼子は言っていた。今から行こう」
礼子の意識が覚醒していくのがわかった。とりあえず殺されることは回避できるみたいだと思った小熊は、浮谷から聞いた話を説明し始めた。
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