第46話 ヒーロー
礼子がすぐに出るというので、県道から甲州街道へと曲がる牧原の交差点か、曲がってすぐの場所にあるシェルのスタンドで待ち合わせかと思ったら、礼子はシノさんの店に来てと言った。
自分の家の近くとは不精な奴だと小熊は半分思った。残り半分は、礼子の考えていることがわかる自分がイヤだった。
とりあえずウールの下着を身につけ、厳寒期にはデニムより保温性の高いチャンピオンのスウェット上下と、ワークマン・イージスの防寒ツナギを着る。
財布やスマホをポケットに入れて、スケート靴からブレードを取った革ショートブーツを履いた小熊は、ヘルメットを被ってアパートを出た。
ドアを閉める前にもう一度部屋の中を振り返る。これから道楽や日々の仕事とは異なる種類の走りに出かける。もしかしたらこの部屋には戻って来られないかもしれない。そう思って小熊は見慣れた部屋を一瞥したが、時間の無駄だと思って駐輪場に向かった。
カブのエンジンを始動させて、暖機の間に簡単な点検を済ませた小熊はカブに跨る。さっきまでの不安な気持ちが落ちついてくる。
やっぱり、我が家はここらしい。
シノさんの店に行くと、礼子はまだ来ていなかった。
ブっ飛ばせば家から五分かそこらの待ち合わせ場所に遅刻とはいい度胸だと思いながら、灯りのついた店に入ると、まだ夜明け前だというのに、シノさんが店内できびきびと動き回っていた。
まだ夜といっていい時間ながら、一応朝の挨拶をした小熊に返事もせず、一抱えのパーツを持ってきたシノさんは小熊の前に置く。
小熊は目の前のパーツを吟味した。小熊のカブをローギア化させるハンターカブ用の大径リアスプロケット。それに合わせた長いチェーン、小熊が夏に自分のカブで富士山に登った時に使ったパーツ。
シノさんが小熊のカブの後部につける、大容量のバイク便ボックスを取り出したところで、礼子がやってきた。
「シノさんあれ出してくれた?」
シノさんは礼子に背を向けたまま、店のパーツ倉庫になっている二階と繋がる階段の脇に置いていた物を持ち上げた。
「これでいいんだな?フルピンのスパイクタイヤを四セット」
礼子はサンタクロースからクリスマスプレゼントを貰ったような顔をした。金属性のスパイクが付いた積雪地用のタイヤは、自動車用としては随分前に禁止になったが、バイク用のスパイクタイヤは今でも販売している。買う人間は少ない。雪と氷の道でバイクに乗ろうという人間はそんなに居ない。
「さて、言われた物は全部揃えたぞ。あとはお前らを力ずくでも止めるのが俺の仕事だ」
礼子はスパイクタイヤを点検しながら言った。
「シノさんは前に言っていたわね。人間は誰でも一度はヒーローになれる瞬間がやってくる。でもみんなその時々の安全や立場を考えてヒーローになることを選ばない。あの時ヒーローになれなかった後悔は、年と共にどんどん大きくなるって」
シノさんは言葉で二人を止めると言いつつ、そうすることを諦めている様子だった。それとも、自分が何かを諦めた時のことを思い出しているのかもしれない。
「その浮谷ちゃんって友達は、何もかも捨てて助ける価値があるのかい?」
後部のスチールボックスを外し、FRPのバイク便ボックスを取り付けていた小熊は、肩を竦めながら答える。
「さぁ?どちらかというと私や礼子と同じく、死んだほうが世の中のためになる類の人間です。でも、私は自分がこんな人間でありたいと思う形で生きられないなら、この命には価値が無いと思います」
自分の掌をしばらく見ていたシノさんは、若い時よりだいぶついてしまった腹の贅肉を撫でてから、小熊と礼子に言った。
「さっさと行ってこい。だが忘れるな。お前たちは不幸だ。運任せの行動は絶対にするな。それは全て裏目に出ることを前提に動くんだ」
小熊と礼子は、シノさんに形ばかりの礼を言い、店を出た。途中のガソリンスタンドで、二台のカブと二十リッターの携行缶に満タンのガソリンを入れた。
以前富士山に登った時、山頂までの往復で使ったガソリンは三リッター弱だった。浮谷の幼馴染が孤立している黒姫の集落と麓までの往復にどれくらいのガソリンを消費するかは、富士登山の時の基準で計算した。携行缶一つで足りるはずだし、小熊と礼子の運が続くのは、このガソリンを使い切るまでだろう。
必要なものをほぼ揃えた小熊と礼子は、甲州街道を松本方面へと走り出した。塩尻から去年の冬に九州ツーリングに行った時に西へと向かった交差点を北へ折れ、篠ノ井線に沿って国道を走る。
途中、長野市街で食料と水を買う。孤立集落に送り届けるのではなく、自分たちが食べる物。これから小熊と礼子は震災の被害地へと救援に行く。何かを貰いに行くわけじゃない。現地では何も補給できないことを前提に、必要な物は全て事前に用意した。
松本市内の大型スーパーマーケットには物が溢れていた。ここからほんの数十km先で多数の人が飢えているなんて信じられない。
いつもと変わらない朝の通勤時間が始まる中、小熊と礼子は、黒姫駅に到着した。
浮谷社長はもう来ていた。信濃町の中心部にもなっている黒姫駅には、周辺に複数発生している孤立集落へ送るべき物資が集積し始めている。ただ、現状では送る術が無い。
「小熊ちゃんどうしよう?全然連絡が取れないの」
電話線は寸断し、携帯の基地局も機能停止している。先の震災では、孤立した集落や避難所が希望した物資は、水と食料と医薬品、それから無線機だったという。今も一部の無線機を持っている集落から断続的な通信は入っているが、その内容はどれも切迫したものばかり。
小熊は浮谷の両肩に手を置き、落ち着かせた。礼子が周囲を見回しながら言う。
「これは見つかってうるさい事を言われる前に出たほうがいいみたいね」
震災の現場に女子高生二人。これからあの信濃富士をカブで登りに行くと言えば止められるに決まっている。彼らは小熊と礼子が、もっと高い山をカブで登頂したことを知らない。
「必要なものは揃ってますか?」
小熊の言葉に、浮谷はここまで走ってきたらしき自分の黒いフュージョンを指す。周囲には浮谷がかき集めたらしき物資が積まれている。駅前のあちこちに、そんな運ぶ術の無い荷物が置きっぱなしになっていた。
小熊と礼子は、それらの物資を自分のカブに次々と積み込んだ。登山中にコントロールできる重さを慎重に見定め、荷物が箱の中で動いて重心がずれないよう丁寧にパッキングする。荷積みを終えた小熊と礼子は、カブに跨った。
浮谷は小熊の胸に顔を埋めながら言う。
「約束して。危ないことはしないって」
小熊はまだ震えている浮谷の背を軽く叩いた。
それから浮谷は礼子の腕を掴んで言った。
「お願い。小熊ちゃんを守って」
礼子は笑いながら言った。
「大丈夫よ!実はね、私はこの世界にもう一人も居なくなったと言われているヒーロの最後の一人なの」
こいつの軽口には付き合ってられないと思った小熊は、先にカブで走り出した。
一人じゃなく二人だ。
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