第5話 トワイライト

 冬至の日が暮れるのは小熊が思っていたより早く、カブでシノさんの店を出る頃には、もう街灯や車のヘッドライトが目立つくらい薄暗くなっていた。

 欧州北部ではこのトワイライトと呼ばれる暮れの微光が夜遅くまで続き、そのためか夜を徹して走る耐久レースがよく行われる。

 小熊は椎の母が若い頃、WECレーサーとしてトワイライトの中をブっ飛ばすことを夢見ていたと聞いたことがあった。トラックのように大雑把な、事実レーシングマシンも市販の実用セダンやトラックと同一構造だったV8OHVのフォードに乗り、精密で優美で、そして貴族的なフェラーリやポルシェに後塵を浴びせてやりたいと。

 椎の母が乗っている1970年代製のシボレートラックは小熊も自動車の免許を取って以来、何度か借りて乗ったが、アクセルの踏み方を間違えるとすぐに後輪が空転するシェビーは、昔抱いた夢の欠片みたいだと思った。

 

 もし、このカブでマン島やニュルブルリンクのサーキットを走ったらどうなるんだろうか。きっと場違いもいいところだと小熊は思ったが、礼子からはスーパーカブも発売されてからしばらくの間、当時の五〇ccバイクの中では抜きん出た性能のおかげで、サーキットの常連だったと聞いた。 

 そこまで昔話ではない一九八〇年代にも、スーパーカブとエンジンやフレームは別物だが、ビジネス用途という性質上、車体外観が非常に似通っていたためカブの兄弟車種として扱われることもあるホンダ・エクスプレスがスクーターレースで絶大な強さを見せ、エクスプレスが出てくると絶対に勝てないからと出場禁止になったこともあるという。

 

 椎の家までの二kmほどの道程で、小熊は色々と考え事をさせられた。きっと欧州のトワイライトより性急に暗くなる日本の夕暮れのせいだろうと思いながら、カブをイートイン・ベーカリーBEURREの裏へと滑り込ませる。

 盗難リスクが高いため、あまり表通りから見える場所に駐めたくないカブを、友達特権で裏手の居住者用ガレージに駐めさせて貰う。時間にルーズな礼子はまだ来ていない。きっと作業も杜撰でバイトが遅れてるんだろうと思った。

 

 店の裏には椎の父がこのために一度上京した都内から、山梨に出戻り移住したというガレージがある。こんな何の変哲もないガレージも東京で借りるとなると、山梨で一戸建てを賃貸出来るくらいの家賃を払わされる。

 ガレージ内には椎の父が乗っている旧いミニと、母のシボレートラックが仲良く並べて駐められている。小熊はミニの丸みのあるフェンダーに触れた。椎の父も幼少期に、雪のモンテカルロ・ラリーでミニが大型大出力の他社ラリーカーをあっさり降した姿を見て衝撃を受け、このミニを買ったらしい。


 いささかミーハーな理由ながら、買った価値はあったらしく、雪の中で軽さと前輪駆動の利を活かして四輪駆動のSUVが降参するような坂をあっさり登ったことが何度もあるという。

 方向は違うが思考がよく似ている夫婦を顕すようなミニとシボレー。車体のサイズも家の中での発言力に比例しているような気がする。椎はどうだろうかと思った。椎の父がモナコのミニに、母がル・マンのフォードに憧れを抱いたように、椎がカブに乗るきっかけになる物があったとしたら。それは何で、誰なのか。

 真っ先に「私だ」と言いそうな奴が、重く響くエンジン音と共にやってきた。


 前後のタイヤを鳴らしてハンターカブを駐めた礼子は、小熊が自分なりに服装に気遣ったのが馬鹿みたいに思える格好だった。仕事場からそのまま来たようなブルーグレイの作業着上下。礼子はこの東日本大震災の閣僚が着ていたようなワークウェアが好きで、私物としても持っているが、今日着ている作業着は真新しい。どうやらコレクションが一つ増えた様子。バイト先で貰ってきたのか盗んで来たのか。

 もう空は暗く、走れメロスならとっくに手遅れになっている時間。小熊は絞首台に上げられたのが自分なら、礼子は日没に遅れることなく来るんだろうかと思った。来るか来ないかはわからないが、礼子なら兵庫県明石市を基準に決められている日本の日没時間と、実際に北杜市で陽が沈む時間との誤差を理由にゴネる。


 多少なりとも見栄えを良くするため、ハンターカブを降りた礼子の作業着に手を伸ばし襟を直しながら、一応必要なことだけ聞いた。

「持ってきてる?」

「もっちろん!」

 椎の両親に招かれるパーティー、普段から無料のコーヒーや軽食を頂戴している身で手ブラというわけにはいかない。小熊は一応プレゼントらしきものを用意し、礼子にも言い付けてあった。それは忘れていない様子。


 二人で店の表に回り、貸切の札が下げられたBEURREのドアを開けると、目の前に椎が居た。エンジン音で小熊たちが来ていることを知り、待っていてくれたらしい。

 カブに乗っていると、色々な種類のエンジン付き機械が発する音の中に、自分のとてもよく知る音が一つ産まれる。街でカブの音を聞くと自然と体が反応するようになる。それだけに新聞や郵便が届いた時に「自分のカブを盗まれた!」と焦らせられ、手入れの悪いチェーン音で自分のカブじゃないと気づきホっとすることもあるが。

「ボン・ナターレ!小熊さん礼子ちゃん!」

 クリスマスディナーの夜。赤い帽子に赤いジャンパースカートのサンタクロース姿で二人を出迎える椎を見た小熊は、もう最初の一皿を頂いたような気分になった。

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