第4話 正装での出席
昼食後すぐに家を出たため、カブの補修部品を買い込む用は夕方にもならないうちに終わった。
小熊の感覚では最寄りのスーパーマーケットぐらいの距離にある甲府の部販で、事務員にパーツナンバーを伝え、相変わらず部販にはほぼ欠品無く置かれているカブの部品を出して貰った。
現金払いの代金を出そうとしたところ、小熊が初めてこの部販に来てからずっと無愛想だった女性事務員が、小熊と目を合わせることなく言う。
「末締めで」
差し出された請求書には、振込み先と期日が書かれている。どうやら他の業者と同じくツケの掛け払い扱いにして貰えるらしい。
銀縁眼鏡に後ろで束ねただけの痛んだ黒髪、ひどく痩せているわけではないが、血色の悪さのせいか幸薄そうにしか見えない事務員が、小熊を見て微かに笑った。まだ無愛想な顔のままのほうが美人に見える。
グレーの事務服の似合いすぎる女がくれた、十二月二十四日の日付が入った請求書は、そういう催しに縁のなさそうな彼女がくれたクリスマスプレゼントなのかもしれない。
小熊は軽く頭を下げて部販を出た。世話になっている先への付け届けというわけでもないが、次にこの部販に来る時には、何かアクセサリーでも買っていこうと思った。そうすれば今回のツケ払いのような便宜を図って貰うこともあるだろうし、服も肌も灰色の彼女にほんの少しの彩りを添えられるのかもしれない。
部販の駐車スペースに駐めたカブに跨って、時計を見た。椎からは夕食には少し早めの時間に来て欲しいと言われていたが、まだ午後のお茶の時間にもなっていない
せっかく甲府に来たんだし隣の勝沼にある解体屋に行って、中古パーツでも漁ろうと思った。甲府市と勝沼の間には他の自治体が挟まっているけど、国道二十号線の甲府バイパスを抜けると、すぐに勝沼バイパスに入るので、バイク乗りの体感では隣町。
勝沼のフルーツラインにある解体屋に行ったところで、必要なパーツがあるわけじゃないけど、あの解体屋にいつも居る、ルーカスの映画に出てきたアンドロイドの賞金稼ぎみたいな店長が、クリスマスにどう過ごしているのか気になった。
部販から表通りに出た小熊は、一度勝沼に向けて走り出したが、すぐに逆方向の韮崎方面へとカブを転回させた。
今は考えなくてはいけない事がある。
昼の用が終わり、夜までのヒマな時間。でも椎のお誘いはきっと両親が催すクリスマスパーティー。この格好のままというのもあまり気が進まない。
小熊は三十分少々の帰り道を服装を考えながら過ごした。今までカブに乗る時には状況や気候に合わせ、必要な服を選び、着ていた。今日は実用や機能ではなく、見た目が求められる服装。そんな基準で衣服という装備を選んだことなんて今まで無かったけど、クリスマスの夜くらいそういう気持ちで着る服を選びたい。
あれこれと考えているうちに家に着いた。ライディングジャケットとデニムを脱ぎ、シャワーを浴びた小熊は裸のままテスク上に置かれた腕時計を見た。出るのにちょうどいい時間だけど、まだ服は決まらない。
さほど多くの服を持っているわけでもないし、カブに乗るようになって以来、私服は実用本位なものばかり買っている。高校生なら制服が正装になるところだけど、ブレザー姿で行こうとは思わない。
考えても意味の無い事だと思った小熊は、一度脱いだデニム上下に再び袖を通し、着古した赤いライディングジャケットを掴む。きっとこれが椎とその両親、そして慧海が求める自分自身の姿。
脱衣所のカゴから出した服を着るだけの簡単な準備を終えた小熊は、玄関前に置かれたヘルメットを被り、さっきまで履いていた黒革のブーツを履き、荷物を持ってアパートを出た。
冬至の陽はもう沈み始めているが、椎の家に行くには少し早すぎるかもしれない。でも、一箇所の寄り道をすれば訪問に最適の時間になるだろう。
通学の時と同じ日野春七里岩の坂をカブで降りた小熊は、一度椎の家を通過し、その少し先にある場所にカブを駐める。
小熊がこのカブを買い、以降もパーツ購入や整備で世話になっている中古バイク屋。店長のシノさんは、小熊が店内に入ってきた気配に気づき、顔を上げた。
「こないだのあれ、貸してください」
突然の頼みにシノさんの顔が綻ぶ。
「いいよ」
返事は簡素なものだったが、立ち上がりいそいそと店の隅のロッカーを開ける仕草から嬉しさが伝わってくる。シノさんが取り出したのは、バイク部品とは毛色の異なるもの。どちらかというと乗る者に装着する部品。黒革上下のライディングウェア。
一般的なレザーウェアより分厚い革で作られたダブル襟のライダースジャケットに同色の革パンツ。肩と腕と腿にはアメリカンフットボールの試合にでも出るような分厚いプロテクターが付いている。
賢明な読者にはお判りであろうウェアの名は、KADOYAバトルスーツ。
数日前、小熊と礼子がシノさんの店に旋盤を借りにいった時、虫干しと手入れをしていたバトルスーツについて礼子がちょっと聞いたのをきっかけに、シノさんから上下で二十万円は下らないレザーウェアの自慢話を散々聞かされた。
シノさんは自分がいかにこのウェアを着て危険な走りを繰り返したのかを、当時の写真と動画を交えて説明してくれたが、実際に着てみてはくれなかった。小熊と礼子はその理由について、シノさんの腹回りについた余分な肉を見ながらなんとなく察した。
小熊が自分のバトルスーツを着てくれるというので、極めて上機嫌な様子のシノさんから上着だけ借りた。夕食の席にはいささか不似合いな腕のプロテクターを外したところ、シノさんは少々ガッカリした顔をしていた。適度に着古されたライダースジャケットのウエストが小熊にはピッタリなのを見て、もっとダメージを受けた様子のシノさんに、それもう返さなくていいと言われ、店から追っ払われる。
いつも着ていて、いい加減皆も見飽きたであろう赤いライデイングジャケットを後部ボックスに放り込み、ダブルライダースの分厚い革に似合いの丈夫そうなクロム製ジッパーのタブを引く。巻き込んだ服や指が千切れることはあっても、ジッパー自体が壊れることは決して無いという感触と共にジッパーが締まる。
このクラシックな革ジャケットと、脊髄や胸にハイテク素材のパッドが入ったライディングジャケット、どっちが安全なんだろうかと思ったが、決まっている。自分の体を生きて家に帰してくれるのは、自分自身で構造や弱点を把握しているウェア。
デニムにブーツにライダースジャケット。バイク乗りの正装に身を包んだ小熊は、背を伸ばし胸を張って椎の家に向かった。
おそらく自分がクリスマスパーティーの席にカブに乗る時の格好で来るのは椎たちの予想通りで、その姿はきっと予想外。
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