第16話 カラス

 社長はセルスターターのボタンを押し、フュージョンのエンジンを始動させる前に言った。

「行くよ、わたしのカラス」

 この見た目も服装も垢抜けない社長の行動で、小熊に理解できないことは幾つもある。砂糖をたっぷり入れた甘いコーヒーが好きなことや、靴紐が嫌いで長靴タイプのブーツやベルクロのスニーカーを履いていること、その中でも最も小熊と相容れないのは、自分のバイクに名前をつけること。

 少なくとも小熊は覚えている限り、自分のカブをメーカーが付けた商品名以外の名で呼んだことは無いし、現在働いているバイク便会社の所属ライダーの中にも、バイクに名前を付ける奇人はほとんど居ない。周囲のバイク乗りを見回しても、礼子や椎はそんな事をしていない。


 小熊がこの社に入る前の、面接というには慌しすぎる打ち合わせの時も、小熊が普段はスーパーカブに乗っていると話すと、社長は真っ先に「名前は?」と聞いた。商品名ではない型番名のことかと思った小熊が「AA01のキャブ最終型ですけど」と言うと、なんだかガッカリした顔をしていた。

 イギリスで老若男女問わず生活の中で車やバイクに乗っている人間へのアンケートを行ったところ、半数以上の人間が自分の愛車に名前を付け、よく話しかけているという結果が出たという。

 もしかしてバイクに名前を付けるのが恥ずかしいという小熊の考えは、小熊の狭い視野から見た小さな世界の考えなのかもしれない。

 社長の視野から見えているものを見ようとするように、フュージョンに乗った社長の後姿を見ながら、手は無意識に自分のVTRを始動させていた小熊は、先に飛び出した社長のフュージョンを追ってVTRを発進させた。

 

 カラスの名の通り真っ黒い車体のフュージョンは、初詣に出る車で混み合った勝沼市街を流れるように走り、バイパスでは他車をスムーズに抜いて行く。

 社長は実家を出てバイク便の仕事を初めて以来、四台のフュージョンを乗り継いでいるらしい。一代目は八万km走って大往生的な廃車。二台目は買って半年で事故を起こし全損。三代目は六万kmで引退させた後、四台目を買った後オーバーホールに出して、自家用を兼ねた予備車として置いている。小熊は社長が山ほど撮った歴代フュージョンの画像をスマホで見せて貰ったが、いずれも車体色は黒で統一している。

 仕事だけでなくプライベートの外出もフュージョンを使っているという社長の、年齢は不詳ながら幼さの抜けきれぬ体形や服装と、大型スクーターのフュージョンが似合っているのかどうか小熊にはわからなかったが、フュージョンに乗った社長は、事務所で仕事をしている時よりも生気を感じさせる。


 バイク便の仕事では、事故防止のために目立つことも重要になる。そのためにバイク便のライダーは反射材の付いたベストを身に付けている。小熊のVTRもタンクは派手な黄色に塗られている。闇に溶け込む黒いフュージョンは危険では無いかと思ったが、黒は他の色より網膜に長く残り、意外と目立つ色らしい。軍隊でも特殊部隊等の存在を誇示する必要のある一部の兵科を除き、森林迷彩でも都市迷彩でも黒は使用せず、逆に目立つことで恐怖を煽るベトコンの黒い戦闘服は、ブラックパジャマと呼ばれ米兵に恐れられた。サバイバルゲームでも、カッコ良さに釣られ黒い上下を着た結果、よく見えて狙いやすい標的になってしまった人間は多い。夜間も黒は人工の灯りを反射し、薄暮の空に映える。ドラマ「マイアミバイス」では、ボディに映り流れる街の灯りを表現するために、主人公の愛車として黒いフェラーリ・レプリカが用意された。


 勝沼バイパスを抜け、甲府に近づいてきたところで、周囲に一般車よりトラックの数が増えてくる。昔から流通の拠点になっている甲府では、初詣の甘酒を届けている小熊たちを含め、物流の仕事は年末年始も忙しい。大晦日を家族とのんびり過ごしている人々が年始の楽しみにしている、今では元旦からやるのが当たり前になった初売りセールや各所で行われるイベント等で必要になる物々は、人が休んでいる時に働く人たちによって運ばれている。


 甲府昭和の高速入り口を過ぎたあたりで、小熊と社長は後方から車間距離を詰めてくるトラックに気づいた。他車の流れよりだいぶ速いスピードで追ってくるトラックのヘッドライトが反射して眩しい。片側二車線のバイパス。隣の車線は空いている。よほど急いでいるのなら車線を移って追い抜けばいいものを、既に他車の流れに先行する速度を出しているVTRとフュージョンを狙うように煽ってきている。

 体形とヘルメットから伸びる髪を見て、女性ライダーだと気づいたトラックドライバーにからかわれているんだろうかと思った小熊は、スピードを出して振り切ろうとしたが、社長はそれを制するように小熊の走路に被さり、そのままウインカーを点滅させて隣の車線に移る。

 後ろのトラックも小熊たちを追って車線変更しようという動きを見せたが、小熊たちの車線に後ろから来ていた別のトラックに阻まれため、速度を上げて小熊たちに並び、何度かクラクションを鳴らした後にスピードを上げて走り去った。


 運送会社に属する多くのトラックが走行状況を記録されるようになって以来、無謀な運転のトラックは減ったというが、たまにこういう車に出くわすことがある。子供じみた負けん気の強いところのある社長があっさり走路を譲ったのは意外だと思いながら、道路の流れという公道の多数決的な速度を大幅に超過して走り去るトラックを憎々しげに見ていた小熊は、直後に社長の意図を知ることになる。

 小熊と社長の走っている車線。小熊たちの前を走るトラックの一つ前に居た白いマークXが隣車線に移り、急加速を始めた。マークXの天井に赤い点滅灯が現れる。

 そのまま流れに乗って走った小熊は、さっきのトラックがマークXの覆面パトカーによって停止させられているのを横目で見ながら、口笛を吹いた。

「カラスは賢い」

 親の庇護を離れ一人で生きていくことも、公道でバイクに乗って生き残ることも、理性的な判断力を失っては成せない。この事務所や客先では少々頼りない社長は、黒いフュージョンに乗ることで、人として完成するのかも、あるいはその道筋を知っていくのかもしれない。小熊にとってスーパーカブがそうであったように。


 甲府から韮崎に入り、道幅が狭くなったあたりで先行を交代し、小熊が前を走る。そのままスマホに表示された地図を見るまでもなく、よく知っている地元の神社までVTRを走らせ、社務所の裏にある通用口前にVTRを乗り付ける。

 社長も隣に黒いフュージョンを停める。社長は正月の神社特有の提灯や屋台の光を黒いボディに反射するフュージョンをねぎらうように撫でている。

 小熊は今後のため、さっき一般車の中から覆面パトカーをどうやって見分けたのかを聞いてみたが、社長は「カラスが教えてくれえるのよ」としか答えてくれない。

 わかるような気がするし、わからないような気もする。以前礼子に同じことを聞いた時は「勘!」と身もフタも無いことを言っていた。小熊もカブで道を走っていて、意識とは別に自分の潜在意識のようなものが危険を感知し、報せるように、カブの動きがいつもより鈍く感じることがある。


 バイクには乗っている人間の感情や知覚を、ダウジングロッドのように増幅させる効果がある。社長は自分自身が感じたものの中で、人間の脳では目に見える形にすることの出来ない反応を、フュージョンから得ているんだろう。

 実家を出て自分の力で生きていきたいという社長の願いを叶え、今は社長の身を守っているフュージョン。物体を実際の大きさより小さく見せる収縮色の黒に塗られたフュージョンは、心優しき蒼黒の馬が、小さな騎士に合わせ体を傾げているようにも見えた。 

「ありがとう、わたしのカラス」

 それでも、バイクに名前を付けるのは恥ずかしいと思う。

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