第15話 フュージョン
大晦日の陽が暮れた後、正月などこの世に存在しないかのような、雑誌社下請けの編集会社まで素材を届ける仕事を終えた小熊が、身延のミスタードーナツで休憩していると、スマホに社からの連絡が入った。
小熊がこの夏、礼子と共にカブで富士登山した話を知っている編集者が居て、仕事中にも係わらず取材を受けたり写真を撮られたりして、少々疲れ気味だった小熊の顔が綻ぶ。
歩合で給料の決まるバイク便の仕事をしていると、依頼と依頼の狭間のような待機時間が苦手になる。いつ入るかもわからない連絡に備え気を張っていないといけないし、仕事の無い状態でVTRを走らせたり、コンビニやファストフード店に居ると、自分が世の中の動きに寄与していない穀つぶしのような気分になる。
食べていたストロベリーリングをコーヒーと共に飲み込み、ペーパーナプキンで手を拭いた小熊は、スマホを見る。通話機能ではなくコミニュケーションアプリで送られてきた荷受先は、勝沼の酒造会社。メッセージが付け加えられていた。
『大物』
つまり小熊が乗っているVTRに付けられた、カゴと呼ばれるバイク便のボックスに納まりきれない荷物。別のバイク便ライダーと二人がかり、あるいはそれ以上の人数で運ぶことになる。
まだ今のバイク便会社に入ってまもなく、他のライダーについてよく知らない小熊は、少し心配になった。バイク暦の浅い新人なら小熊が先導しなくてはいけないし、ベテランでも我の強い人間だと気苦労を負わされる。
助っ人に来るのが誰なのかを確かめるべく、小熊がコミュニケーションアプリをもう一度見ると、表示された文字は意外な内容だった。
『私が行く』
バイク便会社の社長とライダーを兼任している、あの昭和時代の子供のような社長が来る。そう思った小熊は、店を出て外に駐めたVTRに向かう前に、レジに行きドーナツを幾つか買った。さっきまで事務所に居た小熊が見る限り、あの社長は昼食の類を食べていなかったし、何だか甘いものを買ってあげたくなるような顔をしている。
身延から国道より早く北上できる農道を走らせて勝沼バイパスに入った小熊は、勝沼ぶどう郷の駅近くにある荷受先に着いた。甲府の事務所から来た社長はもう到着していて、ちょうどホンダ・フュージョンの250ccスクーターを降り、ヘルメットを外したところ。
市街地や都市部における最速のバイクとして、125~250ccのビッグスクーターの名を上げる人間は多い。バイク便では比較的多く使われているフュージョンは、変速ギアの無いスクータータイプのバイクながら、侮れない速さで知られていて、スクーターゆえ重心やシート高が低く、体格が小さめのライダーにも扱いやすいという長所もある。
やってきた小熊に手を上げて挨拶した社長は、酒造会社の事務所に入っていく。小熊は何だか自分が用心棒か何かになったような気分になったが、バイクの腕っ節を買われたからには、当たらずとも遠からずなんだろう。
愛想のいい接客など求められぬバイク便の仕事。事務所のテレビでさっき始まった紅白歌合戦を見ていた酒造会社の事務員に、社長が身分を明かすと、すぐに届け物を持ってきた。樹脂性のタンク。中身は甘酒らしい。
届け先は小熊の地元、日野春にある神社。今夜から始まる初詣で参詣者に出す甘酒の発注ミスが当日になって明らかになったので、バイク便で酒造会社から直に届けて欲しいという依頼。二つあるタンクの嵩は二つとも後部ボックスに入らなくも無い大きさだったが、重量制限を超過する。
初詣で出される甘酒の味というのは意外と地元の人間にとっての神社の評価に繋がることが多い。その神社では数年前まで近所の酒蔵から譲り受けた酒粕から自前で甘酒を作っていたが、数年前に酒蔵が廃業して以来、酒造メーカーが生産ラインで作った完成品の甘酒を買っている。
バイクまで運ぶのを手伝うという社員の申し出を断った社長と小熊は、自分でタンクを持って駐輪場に向かう。運ぶ前に重さと性質を把握しなくてはいけない。しっかりとした取っ手が付いたタンクは体感ではそれ重くない。フュージョンの後部ボックスにタンクをしまった社長が小熊に言う。
「液体は厄介よ」
「知ってます」
これでも小熊は普段から生活に必要もの全てをカブで運んでいる。
小熊が片手でタンクを持ちあげ、もう片方の手でボックスを開けた時、中から甘い匂いが広がる。小熊はドーナツの紙箱をボックスから取り出し、タンクを積む、社長がチラチラとこっちを見ているので、小熊は箱を開けて中身を見せながら言った。
「買ってきました、届け終わった後で食べましょう」
社長が指をくわえて上目遣いに小熊を見るので、小熊は社長の被っているシューベルトのヘルメットをトンとつつきながら言う。
「あとで」
仕事の後で待っているドーナツに気力を与えて貰ったらしき社長はフュージョンに跨り、小熊に手で自分が先に行く合図をした。事務所や社長の実家に近い甲府周辺では社長が先行し、小熊が道路状況も路面まで熟知している韮崎、日野春で先行を交代する。
過保護な両親の干渉がいやになり、自分だけの力で生きていくため起業した社長は、まだところどころ実家に居た頃のお姫さま部分が抜けきれていない。でも、それは彼女が欲しいものを何でも買ってくれる両親が言わなかったようなことを言う人間と出会うことで、果実やワインが熟成していくように変わっていくのかもしれない。
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