第14話 お姫さま
世間が大晦日を迎える日、小熊は相変わらずバイク便のバイトをしていた。
他県から来ているライダーが帰省休暇を取ったが、特に帰る実家も無い小熊と同じく、年末年始も休み無く働いている人間は世間にごまんと居るらしく、届け先となる企業や個人からの届け物の依頼は絶えない。
仕事が一段落して甲府の事務所に戻っても、すぐに次の仕事が入る。
あと数ヵ月後の新生活に備え、少しでも現金の必要な小熊には有難い話だと思いながら、小熊は事務所で短い休憩を取っていた。
バイクを置くガレージとパーテーションで仕切っただけの事務所に居るのは、小熊と社長だけ。小熊が入ってきても顔を上げるだけで、すぐに事務仕事に戻ったライダー兼任の社長は、小熊の目から見ても少々奇妙な女性だった。
背丈は小熊より少し低く、良く言えばマッシュルームカット、小熊の目から見れば家で母親に切って貰い、切りすぎたような髪で、度の強い黒縁の眼鏡をかけている。
仕事着はいつもデニムのオーバーオールに、袖と首の伸びたスウェットシャツ。洗濯を繰り返して褪せた赤と、クリーム色なのか元は白かったのが黄ばんだのが判然としない色のスウェットは、ボーダーとかストライプというより、シマシマという呼び方が似合う。
小熊がこのバイク便会社でのバイトを決めた理由のひとつは、どこか昭和時代の子供を思わせる社長に、妙な共感を覚えたから。社長としての手腕は良いようにも悪いようにも見えるが、十人ほどの在籍ライダーの稼ぎに足る程度の仕事を取ってきている。
小熊が事務所の隅にあるコーヒーメーカーから、百均で買った緑色のマグカップにコーヒーを注いでいると、社長が小熊のほうを見ていた。手には空っぽのコーヒーカップを持っている。
小熊は社長のデスクまで歩いていき、色違いだけど小熊のカップと同じところで買ったような黄色いカップを水ですすいで砂糖とクリームをたっぷり入れ、コーヒーを注いで社長のデスクに持っていく。
社長は正月に親戚の前で人見知りする子供のようにカップを抱え込み、小さな声で小熊に礼を言った。小熊は頷いて適当に座れる場所を見つけ、腰掛ける。
コーヒーを啜る音を挟み、社長がデスクトップのキーを叩く音が聞こえる。つまらないお喋りをしないのは、この社長のいいところだと思い、奇妙な安心感を覚えていたところで、社長が口を開いた。
「お正月も出てくれるの?」
小熊はコーヒーで手を温めながら答える。
「仕事があれば。学校が始まるまでは出来るだけ出たいと思っていますよ」
社長は「そう」とだけ言ってパソコン仕事に戻る。沈黙。小熊はコーヒーを一口飲み、社長のデスクを見た。古臭い格好に似合いの、二十世紀に作られたような、やたら作動音の大きいデスクトップのモニターが邪魔して社長の顔が見えない。社長がモニターの影に隠れているようにも見えた。
似合わぬお喋りを始めたと思ったら、単に仕事に必要な伝達をしただけ。小熊にとって理想的な職場における人間関係。相手への興味があって発した言葉でも何でもないような、社交辞令としての世間話を始められるのは、小熊にとって苦痛でしか無い。
この社長にはそれが無い。いいことだと思いつつも、小熊はもう一つの考え事をした。こういう時、普通の社会人というものは、コーヒー一杯分くらいの愛想を振りまく物なんじゃないか。小熊のように、そんな無駄な事を望んでいない相手にはそれをしないのは合理的な事、いい事で正しい事。
正しい事だけで構成された物は、予想外の出来事に対して脆い。
今までの小熊は社長との関係に疑いを覚えた事は無かったが、たまには踏み外してみるのも悪くない。少なくともバイクというものはそうだった。小熊はもう一口コーヒーを飲んでから口を開いた。
「社長は実家に帰らないんですか?」
社長は旧式のキーボードを叩く手を止めなかった。逆にキーを叩く速度が上がっている。キー音もやや大きくなっている。
「世の中には帰らなくていい人間と、帰りたくない人間が居るの」
小熊は返事をしなかった。ただ椅子を回して社長の隠れているデスクトップに向かい合った。向こうがそうして欲しがってるような気がした。
「わたしはお姫さまだった」
マンガや童話に出てくるお姫様というより、そのドレスを後ろで持っていたほうが似合うような社長が言った。
「子供の頃からずっとお姫さまだった。欲しいものは何でも買ってもらえて、困った時はすぐに助けてくれた。学校に行ってる時も、家でも」
この年齢が判然としない社長の言いたいことはよくわからなかったが、要するに親の過保護が少し疎ましくなったんだろう。小熊は設備への金のかけ具合から察するに、実家からの支援を得ているようには見えない事務所を見回しながら言った。
「だから姫じゃなく王様になったんですか?」
キーを打つ手が止まる。モニターの影から社長がひょこっと顔を出した。今まで会ったことの無い人種を見るような目で小熊を見ている。
「じゃあ小熊さんがお姫さまだ」
小熊は業務用のコーヒーを飲み干した。寒空の下で荷物を届ける今の境遇が、社長が過去に経験し、自ら捨てたお姫さまの暮らしには思えない。
「今の仕事ではなく事務で雇ってください。そうしたらこの王国の姫になります」
社長は笑い出した。それから手でバツを作る。メールの着信音でお喋りは中断された。デスクトップのモニターを見た社長は小熊に言う。
「仕事よ」
小熊も頭を仕事に切り替えて立ち上がる、椅子にかけてあったライディングジャケットを手に取り、背と胸にパッドの入ったライディングジャケットに袖を通す。ジャケットの上に付けたバイク便ライダー必須のメッシュベストに入った装備のおかげで重い。
届け先を確認した小熊は、事務所を出た。きっと自分がこの社長が作った王国で何か役割を負うならば、それは箱入りのお姫さまでな無いんだろう。
そう思いながら小熊は、甲冑みたいなジャケットのジッパーを締め、騎馬のようなVTRに跨った。
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