第8話 アイスバイン
小熊は慧海に手を取られながら、チロル風の建物に相応の分厚い無垢木で作られた階段を下りる時、借り物のダブル・ライダースジャケットを摘みながら、もうちょっと見栄えのいい服を着ていればよかったと少し思った。
背筋を伸ばし、足音を発てることなく歩く慧海は、紺色のウールシャツに赤銅色のデニムパンツ。ジーンズがインディゴで青く染められるようになる以前、西部開拓史時代に穿かれていた本来の色。
高価でも豪華でもない普段着だけど、少なくともオレンジのインナーに同色のシャツを合わせるほど野暮じゃない。彼女が好んで普段よく身に着けているオレンジだけでなく、武人の藍染めを思わせる紺色も似合うと思った。
慧海は小熊の手を離し、店舗と居住スペースを隔てるドアを開ける。すでに席に着いていた椎とその両親、目の前のご馳走をお預けされて待ちきれない様子の礼子が歓声と共に迎える。
椎は少し不機嫌そうな顔で言う。
「慧海ちゃんは小熊さんの言うことだけは聞くんだから」
おそらくパーティーが始まる前に慧海を起こしに行ったんだろう。ただ、その時間が慧海の決めた起きるべき時間では無かった。
小熊は椎の父に勧められクリスマスツリー前の上席につく。椎の父が椅子を引いてくれた。慧海がそうしてくれないのはわかっていた。片手で引くと床で擦れて不躾な音を発てる重厚なチェア。慧海は自分の聞き手が塞がる行動を好まない。とりあえず慧海が自分とテーブルのコーナーを隔てて隣の席についたことに満足した小熊は、椎の父に礼を言って着席した。
皆が揃ったところで、椎の父がワインボトルに手を伸ばしながら小熊と礼子に聞いた。
「赤がいいかな?白にするかい?」
小熊は白のスパークリング、礼子は赤を希望した。椎の父が嬉しそうにモーゼルと勝沼のワインボトルを手に取ったところで、椎がひとつ咳払いをする。少し残念そうな様子でカール・ユングのノンアルコールワインを選んだ。
椎の父はコルク栓を抜こうとした。スパークリング白のマッシュルーム型コルクは布巾を被せて簡単に抜けたが、赤のボトルは、銀のシールをソムリエナイフで開けるところまでは良かったが、コルク抜きを突き立てて引っ張っても、輸入ワインに時々ある、やたら固いコルク栓はなかなか抜けない。
こういう時に格好つけたがる礼子がボトルを受け取り、コルク抜きを掴みながら小熊に言った。
「持ってて」
小熊はボトルを両手で掴む。二人の握力と腕力を合わせ、しぶといコルクはやっと抜けた。小熊と礼子は普段からカブの整備で同じようなことをしている。
固く締まったボルトを外したり、破損し固着した部品を破壊して取り外したり、それらの作業は設備の整った場所で出来るとは限らない。素人整備ではエンジン駆動のインパクトレンチや部品を固定するバイスの役割を人力で代用することは結構ある。
シノさんに聞いたところ、それはバイクだけでなく車や重機、宇宙船の整備現場でも時々見かけるらしい。バネを押さえながら行う必要のある作業を、専用のコンプレッサーが使えず、あるいは専用品が存在しない状況で、数人が集まって「せーの!」ってやることはよくある。
ようやく開いたワインが皆のグラスに注がれ、椎の母が乾杯の音頭を取って皆でグラスを当てた。礼子は映画「家族ゲーム」の松田優作のように一息で飲み干し、小熊もスパークリングワインの喉ごしを味わった。
今日のパーティーの料理を取り仕切ったという椎の父が、一つ一つの料理を説明しながら薦めてくれた。小熊や礼子はカツレツや腸詰をスープと共に平らげる。
食の細い今時の女子よりはだいぶ肉食に対して旺盛な小熊と礼子を、椎の父母は嬉しそうに見ている、椎は最初のうちは野菜スープのアイントプフとクリームチーズを塗った黒パンをちまちまと食べていたが、小熊と礼子に影響されたのか、手作りのハンバーグを頬張っている。小熊も少し貰った。挽肉というより牛の細切り肉といった感じのハンブルグ・ステーキは、濃厚な肉汁が口の中に迸る。
慧海は血の味のする骨付き腸詰を食い、自身の体内にエネルギーを取り込んでいる。食品のカロリーだけでなく、歯とアゴで感じる固さもまた栄養であるかのように、腸詰を骨まで砕かんばかりの勢いで食べている。
腸詰にまぶされた香草のソースが慧海の唇から垂れたので。小熊は黒パンで拭ってあげた。慧海はソーセージを飲み下し、赤ワインを一口飲んで小熊に礼を言った。
食べる勢いは獣のようだが、流麗な所作は失わない慧海の姿を、小熊はスパークリングワインの泡立つグラス越しに見た。
各々がメインディッシュを勤められるくらい濃厚でボリュームのある前菜が半分ほど無くなったところで、椎の父が立ち上がり、テーブルの中央に鎮座した今日のメインディッシュ、豚の脛肉を丸ごと塩茹でしたアイスバインを、ヘンケルのブッチャー・ナイフで切り始める。
椎の父は先ほどワインのコルクを抜く時に晒した格好悪い姿を取り戻すかのように、芝居っ気たっぷりな仕草で脛肉に刃を突き立てる。小熊は意外と難しい肉の切り分けで、また失敗した時は助け舟を出そうと思い、椎の父を観察した。
ネルシャツにオーバーオールのカジュアルな格好で、顔の下半分が髭で覆われているが、顔は細面で個々のパーツも小さめ、ベーカリーの主人をしていても都会でビジネスマンをしていても違和感の無い顔。
クライブ・カッスラーの小説、ダーク・ピットシリーズで主人公を演じれば、きっと作者も文句を言わないであろう外見。体型はスリムで、ジーンズのウエストは二九インチだと言っていた。椎の母からは、三十インチを超えたら離婚か、アメリカのダイエット武術タエ・ボーの特訓だと言われているらしい。
小熊の視線を意識したのか、小熊が店に行った時に見せる仕事中の姿よりずっと真剣な表情になった椎の父は、何とかアイスバインの肉を骨から切り取ることが出来た。
皿の上に重量感と共に盛られたアイスバインを小熊は口にする、塩だけで味付けられた脛肉は文句なしの美味。小熊と視線の合った椎の父が、まるで自分が猟に出てこの豚を撃ち取ったかのように笑った。
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