第9話 エンジェルフード

 ドイツ風の肉料理でテーブルが満たされたクリスマスディナーが終わりつつあった。

 小熊と礼子はグラム単位では計れないほどの肉を食い、椎の父も小熊たちが来る日は、いつもより余計に食べてしまうといいながら、突き出た腹を撫でていた。

 受験勉強の時に眠くならないように、ここ最近は腹いっぱい食べることを控えている椎も、ひさしぶりの満腹に苦しそうな顔をしている。妹の慧海はいつもと変わりない顔をしていた。きっと彼女はどんな状況であれ自分に必要なだけのエネルギーを取り入れる。無論、彼女の要求する熱量は、普通の女子高生や生活習慣病を気にする成人男子よりもずっと多い。


 妻から言い渡されているウエスト二九インチを守るため、これからどれだけのダイエットと運動が必要になるのか気にしている椎の父を尻目に、椎の母はテキサス人の郷愁の対象だという黄色いバラ模様のプリントドレスを翻し、デザートの準備を始める。

 夕食は夫に任せドイツ風で統一したが、デザートは自分の縄張りと言わんばかりに冷蔵庫を開ける椎の母と、デザートと一緒に出すコーヒーに自らの領域を主張すべく、エスプレッソマシンを操作し始める椎を見ながら、椎の父は言った。

「出来ることなら、毎晩君たちに来てほしい」 

 小熊と礼子、そして椎はあと三ヶ月ほどで、この地を離れる。


 椎の母が誇らしげに出したのは、真っ白なケーキだった。エンジェルフードといって、卵白と砂糖だけで作ったケーキらしい。

 肉料理に負けないボリュームのエンジェルフードが、小熊と椎の目の前に置かれる、軽く1ホールはありそうなサイズ。小熊たちは頂きますと言ってフォークを手に取る。

 味も食感も不思議なケーキだった。椎の母が普段よく作ってくれる、甘さも香りも濃厚なアーリーアメリカン・デザートとは異なる味。デザート特有のくどさをまったく感じない。

 希薄で繊細な味だけど、クリームやフルーツなどのデコレートが一切無い理由がよくわかる。これは何もいらない、何も付けず味わいたい。 

 椎が淹れてくれたエスプレッソがよく合う。純白のケーキは、どこか椎に似ていて、小熊は椎の頬を口に入れたら、このエンジェルフードみたいにふわりと溶けて消えてしまうのではないかと思った。


 コーヒーとデザートを供に、お喋りの時間が始まったあたりで、小熊は自分の持ってきた荷物を出した。

 今までそういう催し物に無縁だった小熊が、今年くらいはクリスマスを祝おうと思い、用意したプレゼント。礼子も上着のポケットから包みを取り出す。なんでも先を越したがる礼子が、自分のプレゼントを椎に渡した。

 箸袋ほどのちっぽけなラッピングを開けると、中身は汚らしい金属の棒だった。元は銀色だったらしき棒は、黒ずみとも黄ばみともつかぬ色に変色している。


 この馬鹿は祝い事のプレゼントになんて物を持ってきてるのかと思い、今すぐ礼子を張り倒してやろうと思った。椎も棒に手を伸ばすのを躊躇している。

 椎の父が立ち上がり手を伸ばし、棒の刻印に指先で触れながら言った。

「やっぱり、SOVRANIのボールペンだ」

 椎が金属棒をいじくると、ペン先が露出する。包装紙の裏に試し書きしたところ、書き味は極めて良好な様子。


 礼子が得意げな顔で言った。

「インクが切れたら芯は取り寄せられるし、一生使えるわよ」

 普通のボールペンより手に重い純銀製のペンは、これから大学生として、重要な書類に署名することも増えてくる椎には最良のプレゼント。しかし椎は、見た目の汚さをあまり気にいていない様子。

 椎の母が手を伸ばし、椎から差し出されたペンを手にしながら言った。

「これ、磨けばピカピカになるわよ」


 立ち上がって店舗のバックスペースに行った椎の母は、クロスとクリームを持ってきた、椎の父は「銀はそのままのほうがカッコいいのに!」と言っているけど、いぶし銀を好む男子のセンスは多分椎には理解して貰えない。小熊は少しわかる気がする。

 椎の母はクロスと研磨クリームを使ってペンを磨き始める。金属磨きは一度やり始めると止まらなくなるというが、物がペン一本なだけにすぐに磨き終わり、ボールペンは鏡のように綺麗になる。ステンレスやクロムのギラギラした光沢ではなく、銀特有の淡く優しい輝き。


 椎は磨かれたペンを胸に抱いてご機嫌な様子だった。バリスタに憧れイタリアンブランドの物を集め始めたが、エスプレッソマシンは半分店の物で、ウエストエプロンはイタリアンデザインだけど日本製。SOVRANIのペンは、椎が手に入れた小さいながら本物のイタリア。

「以前湘南のスワップミートで見つけてね、押さえといたのよ、わたしより椎ちゃんが持っていたほうが役に立つ」  

 椎と両親に礼を言われた礼子は照れくさそうにしていた。

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