第7話 夜の森
住宅兼店舗のBEURREにはもう何度も来ていて、椎の部屋に招かれたこともあったが、小熊が慧海の部屋に入るのは初めてだった。
足元の間接照明だけで照らされた薄暗い廊下に並ぶドア。椎が自作したトールペイントのネームプレートが下がり、スモーガス・ボードと呼ばれる北欧のオープンサンドイッチのメニューシートがポスター替わりに貼られた椎の部屋の隣。同じような作りだけど何も貼られていないドアをノックする。
小熊は全部繋げれば全長180cmはありそうなスモーガス・ボードのメニューを上から眺めていたが、最初の一行を読み終わる前に中から声がした。
「どうぞ」
眠っていたとは思えない明瞭な声。小熊は今まで開けたことの無かったドアを開けた。
部屋の中は真っ暗だった。慧海の部屋とその内装に興味のあった小熊はちょっと残念な気分になる。慧海が部屋の真ん中に立ってこちらを見ているのがわかった。ドアを開けた入り口から差し込む廊下の微かな照明を反射し、鷲か鷹を思わせる二つの目が輝いている。
「下でクリスマスパーティーが始まる」
小熊の言葉に慧海は返答する。
「今、行きます」
暗闇に目が慣れてくると、慧海が下着姿であることがわかった。彼女が色彩も、その機能も好んでいるオレンジ色だろうかと思った。慧海は暗闇の中で、小熊には何も見えない空間から服を手に取り、身につけている。
試験休みが始まって以来、慧海と二人で話したことが無かった小熊は、このまま慧海を連れて皆の居る店まで連れて行くのもつまらないと思い、暗闇に向かって話しかけた。
「休みの間はどこかへ行ってきたの?」
慧海は薄暗い部屋でシャツに袖を通しながら言う。
「昨日は実相寺の裏山を歩きました。一昨日は精進ヶ滝」
小熊の予想とは異なる返答。慧海はこまめにバイトをしながら装備を買い足し、少しずつ行動範囲を広げていた。慧海の言った二つの場所は、健脚な慧海の基準では家の近所で、子供や家族連れが自然と親しめる歩道が整備された観光地。慧海の望んでいた山野の自然とはイメージが結びつかない。
小熊の抱いた疑問に気づいたかのように、何色ともつかぬ色で輝く瞳が小熊を見た。
「ドアを閉めてもらえますか?」
寝起きの自分や着替える姿を見られるのが恥ずかしいのか、そう思った小熊は部屋を出ようとしたけど、それでは面白くない。小熊はそのままドアを後ろ手に閉める。部屋の中は完全な暗闇。慧海の姿すら見えない。
目を開けても閉じても同じようにしか見えない視界の中で、小熊は聴覚に神経を集中させる。体の動く音と衣擦れで、慧海がシャツのボタンを留めているのがわかる。部屋が煌々と照らされている時と変わりない手つき。
「暗闇の森では、足を一歩前に踏み出すたび、感覚を研ぎ澄ます必要があります」
小熊は何となく理解した。慧海が学校が休みになった途端に昼夜逆転の生活をしているのは、自堕落に怠けているのではない。きっと慧海は瞳を猛禽のように輝かせながら、夜の森を歩いているんだろう。小熊がカブで遠出した時に感じるようなものを、慧海は肉体一つで得ている。
小熊は目を閉じ、もう一度開けた。暗闇で慧海を感じる。何も見えないはずなのに、聴覚や皮膚で、慧海が目の前に居ることを感じる。目でも輪郭程度は見える気がした。
「では、行きましょうか」
自分の前に居ると思っていた慧海の声が後ろから聞こえて、小熊は思わず振り返った。これも慧海が夜の森を歩いて得たものの一つだろう。体から一切の音を発することなく小熊の背後に回る。足裏から伝わってくる情報が頼りの暗闇では、ほんの少しの音を聞き逃さないため、足音も呼気すらも殺すことが必要になる。
「何も見えない」
部屋の出口がどこかさえわからなくなった小熊は慧海に手を差し出した。小熊の手に触れた慧海は言う。
「またカブの整備で怪我をしましたね?これはマイナスドライバーで引っかいたんですか?」
相変わらず慧海の姿は見えないけど、慧海が笑ったのはわかった。
小熊の手だけでなくドアノブも見えているらしき慧海に手を引かれて部屋を出ると、さっきまで暗いと思っていた部屋が明るく感じる。小熊と慧海は階下に降り、すでに乾杯の用意が整ったパーティーに参加した。
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