第44話 教えてあげる

 小熊は駐輪場にカブを駐めて間もなく、自分に向けられる視線に気づいた。

 一瞬横目で見た小熊は、見るな来るな話しかけるなと思いつつ、出来るだけ相手と目を合わせないよう努めた。

 日ごろの行いがあまりよろしくなかったのか、相手は小熊の思惑を無視して近づいてくる。

「君、それ、君の、君のかな?」


 何かを言っているが、意味がわからない。出来ることならわかりたくない。小熊は最小限のカロリー消費で話を終わらせるべく、相手を見ずに返答した。

「ええ」

 言った後で選択を誤ったことに気づいた。「いえ」と否定していれば、後の面倒事を回避できたかもしれない。肯定に理由は不要だが、否定には理由付けが必要だと咄嗟に思ったが、大体否定の理由をいちいち説明する義務のある相手ではない。


 小熊の短い返答を聞いた相手の機嫌が良くなるのがわかった。こんなことなら他の女子がよくそうしているように、スマホを出して何か見ている風を装えば良かったが、スマホを持つようになってまだ数ヶ月の小熊は、バイクに必要な用途から覚えていったので、まだスマホの一般的な扱いに慣れていない。

「君、君は珍しいね、女の子がカブなんて。キャブ式のカブでしょ?ぼ、僕もね、カブに乗ってたんだよ」

 小熊は自分がまだ愛想笑いを浮かべているのが不思議だった。駅前バスターミナルの端にある駐輪スペースで、カブのシートに座っていた小熊は、いきなり無遠慮に話しかけてきた男性にうんざりしていた。


 小熊が世話になっている勝沼のバイク解体屋と、彼にまつわる女の繰り広げた昼ドラに巻き込まれた翌日、高校三年生の冬休み最終日に、小熊はシノさんから頼まれた用で甲府駅に来ていた。

 カブに乗るようになった小熊にしてみれば生活圏内のご近所。真冬でも陽のある昼間ならウールライナーの付いたライディングジャケットを着ていれば、防風性に優れたカブで出かけるのは負担じゃない。

 駅前にある無料の駐輪場にカブを停め、シートに横座りた小熊が、膝の位置にあるカブ標準装備の多目的フックからブラ下げていた、カバー付きペットボトルのお茶を一口飲んだところで、その男は近づいてきた。

 バス、タクシー兼用ターミナルの一部を区切られた駐輪場と、公衆トイレを隔てて反対方向にある喫煙スペースから出てきたんだろうか。微妙に煙草臭い。


 小熊自身は喫煙しないが、煙草の匂いについてはそれほど苦手意識は無かった。だいたい排気やオイルがもっと強い臭気を発するカブに乗っているし、シノさんが店内に人が居ても居なくても店を出た裏で時々吸っている、微かにスミレの花の香りのする沖縄煙草の匂いと、紫のパッケージは嫌いじゃない。

 ただ、匂いというのはその人本人に対する感情と密接に係わっているらしく、小熊はこの男が発する煙草の匂いを好きになれそうにはなかった。


 男が穿いている、用途不明のストラップやポケットが付いた、よく中古ジーンズショップにスタンダードなモデルよりワンランク低い値段で売っているようなデニムパンツからして小熊の好みではない。

 他にも派手な模様が入っているが生地そのものの薄いスウェットシャツ、使い古した結果、素材の安物感だけ強調されている、軍用フライトジャケットの外見だけ真似たコピー品。靴は通販で健康グッズとして売られているような、革靴とスニーカーのデザインが混じり合ったウォーキングシューズなど、身に着けている物の全てが安っぽく卑屈な、白髪混じりの生え際がだいぶ後退した男性は、さっきからずっと小熊と仲良くお喋りをしていたかのような口調で言う。


「僕、僕もカブに乗ってたんだ、カブのことは結構知ってるんだ、それで、それで良かったら、カブのことを教えてあげようかと」

 小熊は自分のウンザリした気分が表情に顕われ、相手に伝わることを願った。小熊は過去に何度か話しかけられ、礼子も椎も遭遇したというあれに出会ってしまった。

 女性がバイクに乗っているとたまに出会う、教えてあげるおじさんに。


 小熊はその男のことを一切無視しようとしたが、それが相手の逆上を招く可能性を考え、人と話した経験に乏しい自分なりに考えた、体のいいお断りの言葉を捻り出した。

「すみません。仕事中なので」

 小熊がバイク便のバイトをしている浮谷社長の決まり文句。浮谷にとっておやつを食べるのもアプリゲームをするのも仕事の内らしい。自営で会社をやっていると、しょっちゅうやってくる物売りを最小限の労力で断る言葉を覚えるという。


 男は粘っこい視線で小熊を見ながら言う。

「でも、でもでも、君はさっきからカブに座ってジュース飲んでいるだけじゃないか、ちょっと、ちょっとくらいおじさんとお喋りしてもいいんじゃないかな。カブのことは、必要だよ」

 なんで見ず知らずの男性に自分のビジネススタイルや必要性の取捨選択を指図されなくちゃならない。そう思った小熊は、ライディングジャケットの内ポケットからスマホを取り出しながら、さっきより幾らか強い口調で言った。

「これから電話をかけなきゃいけないんです」


 男は引くタイミングを逸したのか、それともここで引き下がったら自分が惨めな気分になるとでも思ったのか、なおも小熊に食い下がる。

「そんな、子供がそんな言い訳しても、僕にはわかるよ、おじさんと話をするのが面倒臭いと思ってるんでしょ?でも、でもね、バイクに乗るなら、バイクの先輩の教えは素直に聞かないと、大変だよ、死ぬよ」

 小熊は今、この男をぶちのめしたら自分がどんな罪になるのか考えていた。男の背後には交番がある。警官は常駐していて、交番前にはクラウンのパトカー。うまく市街地を抜けて山間部の道を走れば、逃げ切れぬこともない。そう思った小熊は、カブの後ろには身分証明に等しいナンバープレートが付いていることを思い出し、カーチェイスを諦めた。


 男が「いいかい?カブのブレーキはね」と言いながら小熊に手を伸ばした時、小熊は駅の出入り口に注目し、男が触れようとした手を上げて大きく振った。

「こっちこっち」

 駅を出てターミナルを見回していた人間が、小熊の姿を認めて走り寄ってきた。ワークパンツにスタジャン姿の少年。背は小熊と同じくらい。

「遅れてすみません。待ちましたか?」

 カブのシートに座っていた小熊は立ち上がり、微笑みながら首を振った。

「ううん、そんなに遅れてないよ」


 待ち合わせの時間からは数分経過している。電車での移動に慣れていない感じの少年は、ホームからここまで走ってきたらしく、少し息を切らしている。それを一切言い訳しない事に小熊は好感を抱いた。

 少年は小熊と、さっきからまとわりついている男を交互に見て、少し後ずさる。

「お話し中でしたか?」

 小熊は横の男など居ないかのように少年に歩み寄り、少年が背負っていたダッフルバッグを指した。

「重かったでしょ?」


 小熊と少年のやりとりを見た男は小熊に向かって、女性への差別的な言葉を吐き散らしながら立ち去った。礼子や椎からも聞いた教えてあげるおじさんの特徴。高校生女子と見ると話しかけてくるおじさんは、同年代の男子を見ると逃げ去って行く。小熊にはその習性も心理もわからないし、わかりたくない。

 椎が同類の男に話しかけられた時は、待ち合わせていた慧海が近づいたところ、男か女か間違えたというより、慧海の眼光の鋭さに恐れを成して逃げ出したらしい。礼子の時は、彼女が映画を見て幾つかの単語だけ覚えたヴェトナム語で返答したところ、口汚い罵りの言葉だけを残して去っていった。

 

小熊も今まで数多くの人からの教えを受けたからこそ、カブに乗り続けていられる。だからこそ、教えてもらう必要がある時は、礼を尽くし代償を払い、きちんと聞く。こんな他人の都合を考えない無遠慮なオッサンに聞くことなど無い。

 去って行く男を少々奇怪な通行人を見るような目で流し見た少年はダッフルバッグを肩から下ろし、小熊に中身を見せた。バッグの中は緩衝材に包まれたカブのエンジン。


 小熊が受けたシノさんからの頼まれ事は、このエンジンの受け取り。シノさんと友達だという御殿場の自転車屋が面倒を見ているカブをオーバーホールすることになって、エンジンはシノさんのところに外注に出すことになった。そのエンジンを受け取るために甲府までやってきて、変な教えてあげるおじさんに絡まれたりもした。

 エンジンを持ってくるという男子の特徴はシノさんから聞いていたが、小熊は見ず知らずの彼が駅から出てきた時点で、何となく自分の同類だと察しがついた。昔カブに乗っていたと自称するおじさんからそれは感じなかった、きっと、そのカブに乗っていたという過去が本当でも嘘でも、今はもう濁っている。


 少年は十数kgの荷物の入ったダッフルバッグを両手で持っている。手っ震えているが、自分の両手で持っている。

「これを担いで電車に乗るのは初めてじゃないですから。今載せている予備エンジンを買いに行った時とか、外国製のコピー品ですけどね」

 小熊は少年が言葉では強がっていても重そうにしていたダッフルバッグを片手で受け取り、自分のカブに付けた後部ボックスにしまいながら言う。

「わたしもあれは気になっていた。どんな感じ?」


 少年は自分のスマホを取り出して、予備エンジンを搭載した自分のカブの画像や、走行中の動画を見せる。

「いいですよ。今んとこ故障は無いし、発進の時とか怖いくらい加速しますよ」 

 画像のカブはホンダが新聞配達用車種として販売しているプレスカブで、見た感じ改造は施されていないが、車体全体にアニメキャラをプリントしたバイナルラッピングと呼ばれる伸縮性シールを貼っている。ベースになったプレスカブの、働くバイクそのものといった姿の対極にある仕様で、実用性も損なわれていない。興味深いカブだった。


 小熊は少年に顔を近づけてスマホを覗き込むが、少年は小熊より小熊の乗ってきたカブが気になる様子で盗み見ている。 

「キャブのカブ、いいですね、パンクはしました?」

 小熊は少年のスマホを勝手に操作し、画面をスワイプしながら答える。

「何度か、そんなに多くないよ」

 少年は小熊のカブを羨ましそうに見ながら言う。

「僕のカブはなんかやたらパンクするんですよ。大事な時に限って。今日もカブで来る予定だったんですが、出がけにパンクしたので電車で来ました」


 小熊は少年の腕を掴みながら言う。

「それほどパンクが頻発するのは、どっかおかしいんじゃないの?足回りとか、一度自分で点検したほうがいい」

 帰りの電車を気にしているらしき少年は、小熊の手を少し煩わしがる感じで言った。

「整備は全部、近所の自転車屋さんに任せてますから、僕は自分で整備なんて出来ないし。

 小熊は少年の腕を掴む手を強めながら言った。

「足回りのメンテナンスはそんなに難しくない」

 小熊が掴んだ少年の腕は細かったが、もっと細い椎や史は、自分に出来ることは自分でやっていた。浮谷社長みたいに出来ることも人任せな人も居るが。

「わたしが教えてあげる」

 小熊に腕を掴まれ、顔を寄せられた少年は、さっき小熊が教えてあげるおじさんに向けたような目をした。

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