第43話 物と人
翌日、小熊は棒人間の解体屋に居た。
ここ数日の間、棒人間と彼に関係した人たちのトラブルに巻き込まれたが、それでも小熊が限られた冬休みの間に、バイトの時間を縫ってカブの維持に必要な物を探さなくてはいけないのは変わりない。
部品の入手は概ね終わったので、今はその部品を取り付ける工具を探している。千円の工具セットと、中古屋や百均で少々買い足した工具で出来ることは限られている。基本的な工具くらい相応の品質の物が欲しい。
だからといって名の知れた工具をポンと買う金など無いので、今は解体屋で廃車から抜き取った車載工具を漁っている。
いざって時は借り物で済ませることも出来る工具は、冬休みが明けた三学期中に探しても間に合うのも事実だが、もしかして自分が足を突っ込むことになった、棒人間とレクサスの女が繰り広げる昼ドラみたいな出来事の顛末を見届けたい気持ちがあったのかもしれない。
つまらないドラマだって最終回の直前まで見ていれば、最後の一話を見ようという気持ちは起きる。
棒人間はいつもと変わりなかった。小熊がやってきても何の反応も示さず、ただ何かの部品を磨く作業を続けている。やはりあの部品は血肉ではなく機械で出来ているようにしか見えない棒人間の、体の何処かに使う部品なんだろう。彼が部品の磨り合わせを終え、自らの手で組み付ければ、愛想笑いの一つくらいするようになるのかもしれない。
小熊は勝手知った解体屋の工具が詰まった箱の中に陣取り、中身を取捨選択し始める。車載工具というのはメーカーを問わず必要最低限の品質で、小熊の必要とする精度や強度の条件を満たすものはなかなか見つからない。
これは腰を据えて探すしか無いかと思った。幸い最近何かと騒がしかった解体屋も、しばらくの間は平穏な時間が過ごせる見込み。
棒人間を藍地くんと呼び、一方的な愛情を向けていたレクサスの女に相談を受けた小熊は、奢られたアメリカン・チャイニーズの夕飯代と思って自分なりの方法を提示したが、あの女がそれを実行に移すには数日から数十日を費やすだろうと思っていた。少なくともその間は、小熊は誰にも邪魔されず工具探しに専念出来る。
いくら探しても良品の見つからない工具探しに飽き始めた小熊は、数メートルくらい離れた場所にある、屋根だけのテントの下に座っている棒人間を見た。接客らしき事をしている時に正面から見た棒人間は、オイル缶かボイラーに目鼻の穴を開けただけみたいな顔をしていたが、横顔は少し違って見える。
何が違っているのかは小熊にはわからなかった。日焼けや発汗などの生物的な現象には無縁に見える鋳物のような肌と、細めたり吊り上げたりといった感情変化の機能を与えられていない、ただの穴にしか見えない瞳は変わらない。ただ、夕べ小熊は彼について幾つかのことを知った。
民俗学の研究者としてフィールドワークを行っていた頃の彼。一人の少女を助けるために准教授の地位を約束された大学生活を投げ捨てた過去。他者の感情に触れ、それに倦み疲れ、自ら他人との関わりを閉じてしまった男は、解体屋で物言わぬ機械に囲まれる暮らしを選んだ。
手にしていた工具を地面に置いた小熊は、暇に任せて棒人間に話しかけた。
「XLRにはまだ乗っているんですか?」
世の中には心のある機械というものも存在する。金属と樹脂で出来たバイクは言葉を話したり考えたりしないが、乗り手の意思や感情を反映して、形状や性質を変えることがある。
小熊はまだカブにそういう感想を抱いたことは無いが、ピカピカに磨かれ飾られながら、誰にも省みられない死んだバイクや、今にも朽ち果てそうなのに、残された寿命を強烈に生きているバイクを見たことはある。
きっと棒人間が少女を助けたのも、そのバイクがあったからではないかと思った。人の感情をほぼ失った彼にほんの少し残った、目の前の不幸な命を救い上げたいという気持ち。それを彼のバイクは増幅させ、実行を可能にしてくれた。小熊の視点から見る限り、彼を人たらしめたのはアイヌの少女でも民俗学の研究でも、レクサスの女でもなく一台のバイク。
人と接した経験に乏しい小熊は、言葉を話すことすらしない棒人間の口らしき穴から何も聞けずとも、彼のバイクを見れば、この藍地という男がどんな奴なのかわかる気がした。
棒人間は首をぐるんと回し、小熊を見た。今にも赤く光りそうな目を向ける。それからもういちど首を回して、何も言わず自分の後ろを指差した。
小熊は立ち上がり、棒人間の居るテントの裏手に回る。これから在庫倉庫にでもするつもりなのか、平たく整地された空間の端に、ISO規格コンテナに窓と戸を付けたコンテナハウスがある。
彼の居住スペースの役を果たしているのか、小熊のワンルームより狭そうなコンテナハウスの前に、一台のバイクが停めてあった。
小熊は二灯のヘッドライトを備えたBAJA仕様と言われるホンダXLRの回りを一周し、前後左右から見た。それで充分。おそらくずっと乗られていない、だが完璧に近い整備が成されている。もう動かないバイクだけど、今にも走り出しそうな、走りたそうなバイク。
人の心を持たぬ機械だと思っていた棒人間は、どうやら小熊が思っているよりずっと感情豊かで情緒があって、おそらく心優しい。彼は心を失ったのではなく、今はその人格の奥底に眠らせているだけで、再び機械から人になる時を静かに待っている。言葉を話したり感情を表現するような人間らしい行動が出来ないのではなく、その必要が無いからそうしていないだけ。
それに、どうやらその必要性とやらは向こうからやってくる。
もう自分があれこれと気を回し奔走する必要は無いのかもしれない。小熊がそう思った矢先に、不穏な音が近づいてきた。
エンジン音よりタイヤの発てるロードノイズのほうが大きい、相変わらず車であって車でないような、小熊のあまり気に入らない車。レクサスのSUVがやってきた。音は小熊が最初に聞いた時より重い。
レクサスの後ろには、列車の貨車ほどもある銀色のトレーラーが接続されていた。
レクサスは小熊の前に停まる。厄介な女にまた絡まれる前に退散しようと思っていたが、車内から出てきたマルーンレッドのスーツを着た女が、小熊に駆け寄ってくる。
レクサスの女は、ここまで牽引してきた大型のトレーラーを掌で叩きながら言う。
「買っちゃった!」
それはエアストリームと呼ばれる物だった。
アメリカで製造、販売されている、航空機用アルミニウムで出来た流線型のキャンピング・トレーラー。
列車を短く切ったような車体の内部には、独立した寝室やキッチンとシャワールーム、ソファのあるリビング等、生活に必要な物が全て納まっている。
日本のキャンピングカーとはスケールの違う、移動型家屋エアストリームは日本にも多数輸入され、別荘や店舗等に利用されている。
小熊は以前、全国を軽キャンピングカーで旅して回っているという椎の祖父と知り合い、彼が軽キャンパーを買うまで何台かのキャンピングカーを乗り継いだ話を聞いていた。
国内外の幾つかのキャンピングカー製作、販売業者とコネがあるという椎の祖父は、いつか小熊がキャンピングカーを買うことになったら相談して欲しいと言っていた。小熊はそのコネを当てにして、レクサスの女がエアストリームを手に入れる手伝いを頼んだ。
小熊はレクサスの女に半ば詰め寄るように言った。
「あなたに紹介したのは私にとって恩のある人間です。無理を言って私の顔を潰すような真似をしたんじゃないでしょうね?」
レクサスの女はけらけらと笑いながら言った。
「そういう目的なら今すぐに買ったほうがいいって言ったのは恵庭さんよ?男と女の関係はそういうもんだって」
どうやら行く先々で女にもてて困ったと自称していた椎の祖父は、余計なお節介を焼いてくれたらしい。おかげで小熊の目論見では当分続くと思っていた平穏が、半日も経たぬうちに破られた。
棒人間はレクサスの女とエアストリームを見ても、何も表情を変えなかった。小熊は少し彼に同情した。世間には男が自分の中の決して変わらないと思っている物を、強引にネジ曲げ変えてしまう傍迷惑な女が居る。もしかして彼はちょっと女難の気があるのかもしれない。小熊も自分は棒人間の味方だと思っていたが、結局はレクサスの女に寝返り、彼の生活を混乱させる片棒を担いだ。
レクサスの女は、もう一度エアストリームを叩きながら言った。
「今日からここは、お父さまの民俗学ゼミの分室よ。わたしと藍地くんの、ね」
こうなった原因の一端は小熊にもある。レクサスの女は結局のところ、何もかも捨てて棒人間の元に駆けつけることが出来なかった。だから全てを捨てて故郷を出ようとしたアイヌの少女のように、彼を変えることが出来なかった。
大学での立場や研究が彼女にとって自分自身と不可分のものならば、大学をここまで持ってくればいい。少なくとも小熊ならそうしている。小熊は去年のバーベキュー・パーティーで、椎の祖父と喋った時のことを思い出した。
以前はキャンピングカーでアイドルユニットの追っかけをしていたという椎の祖父。地方で行われるイベントでファンが集まる時、よく話題になったのは、「どこに泊まる?」そんな時に椎の祖父はよく「ホテルは家から持ってきた」と自慢していたらしい。追っかけていたアイドルご本人をキャンピングカーに招いたこともあったらしいが、アイドルは「秘密基地みたいで超興奮する!」と言っていた。キャンピングカー内部にあった、つい先日行われたばかりのアイドルフェスのグッズを見る限り、椎の祖父がいくら昔の事と言い張っていても、それは現在進行中のお話だということは隠しきれていなかった。
小熊が少し前に大学への進学を決めた時、学生寮はバイク禁止と知り、カブを手放すことを求められた小熊は、何もかもが整えられた豪奢な寮を拒み、カブに乗ることが出来る生活環境を自力で作ることを選んだ。
自分よりずっと年上の人たち、しかも男と女のことなんて相談されても小熊に答えなど出るわけが無い。だから小熊はこの件にまつわる人間の感情を一切無視し、物質的な解決方法を提示した。人のことはわからないが、カブや機械と向き合った経験なら世の多くの人達より少し余分にある。あとは必要な物の入手を自らのコネの範囲で手配した。
レクサスの女は、小熊がさっきまで居たテント裏のスペースにズカズカと入り込み「ここがいいわね」と言うと、そのままエアストリームを運び込もうとした。
車で牽引するエアストリームも、航空機用アルミの軽量な車体ゆえ、現地での移動は人力で出来る。
小熊はエアストリームに棒人間のバイクを押しつぶされたらたまらないので、XLRのスタンドを上げてコンテナハウスの横に移動させる。レクサスの女は、一人でエアストリームを引っ張ろうとしていたが、無理があったのか、レクサスの中に向かって話しかけた。
「ちょっと手伝って」
レクサスSUVの後部ドアが開き、中から一人の少女が降りてきた。紫色がかった長い黒髪と大きな瞳。背は低いが小熊よりいくらか年上に見える女の子。
車内から出てきた少女は、エアストリーム相手に奮闘するレクサスの女を素通りして、棒人間に駆け寄った。
「藍地!」
少女は棒人間に抱きついた。棒人間は彼女をそっと引き離し、首を振る。
棒人間は何か言った。相変わらずボイラーの蒸気が漏れる音にしか聞こえない、でも小熊には「だめだ」と言ったことがわかった。少女もわかったらしい。
「もう遅いよ、決めたから」
棒人間はもう一度首を振り、だめだ、と繰り返す。
紫の髪の少女は棒人間の前で両手を広げた。
「じゃあわたしを力ずくで放り出してよ、ブン殴ってでも追っ払ってよ」
少女はズルそうに笑っている。彼がそんな事など出来ないのを承知している顔。かつて棒人間が大学進学まで面倒を見た少女の元を自ら離れた時、彼に似合わぬ強引な方法を選んだのかもしれない。それが彼の傷となって残り、彼を再び人から遠ざける原因の一つになったことを、この紫の髪の少女は知っている。
「せっかく藍地くんが保証人になってくれたアパートだけどね、家賃貯めこんで追い出されちゃいそうなの、だからまた藍地のとこに引っ越そうかなって」
全然悪びれる様子の無い少女に棒人間は背を向け、再び部品磨きを始めた。研磨の手際がほんの僅か大雑把になったことに気づいたのは、日々バイクの整備を行っている小熊だけ。
紫の髪の少女は、それで承諾の返事を貰ったかのように満足げな笑みを浮かべている。きっと彼女が故郷を逃げ出す時も、こんなふうに彼を半ば強引に巻き込んだんだろう。
後ろでレクサスの女が「早く手伝ってよー」と言いながらエアストリームを押している。小熊は手を貸そうとはしなかった。これ以上レクサスの女の行為に加担したくなかったし、たぶんこの大きなトレーラーを押すべき人間は他に居る。
紫の髪の少女は「やだ力仕事なんて手ぇ汚れちゃう、藍地がやってよ」と言っていたが、レクサスの女に「お昼にローストビーフ丼奢ってあげたでしょ!」と言われ、渋々一緒に押す。案外律儀なところがあるらしい。
背後で繰り広げられる騒動を余所に、部品磨きを続けていた棒人間は、やがて部品をテーブルに置き、椅子から立ち上がった、それから何も言わず、自分の世界に侵入してきたエアストリームを一緒に押し始める。
小熊は作業を三人に任せ、その場を離れる。ここに来た目的は工具探し。どうやら大した収穫は無さそうで、もう一つさほど重要でもない目的の昼ドラ見物も、話はもうエンドクレジットを残すのみになっているらしい。
棒人間の人間関係、レクサスの女の大学での立場、そして紫の髪の少女の故郷と家族。人間は各々重い物を抱えているが、それは時間をかければ一人でも動かせる。もちろん人と人が協力し合えばもっと手っ取り早い。
三人にとって重荷となっているエアストリームも、その中に各々の未来が詰まっているならば重くない。エアストリームはテント後部のスペースに納まり、棒人間のコンテナハウスに鼻先をぶつけて一部押し潰しつつ、収まるべきところに収まった。
レクサスの女はエアストリームを買って早々に出来た凹みを気にしていて、紫の髪の少女はコンテナハウスをつま先で蹴りながら「これ邪魔~藍地これもう捨てようよ~」と言っている。
これから三人の話し合いで、もうひと揉めあるかもしれない。巻き込まれてはたまらないので早々に退散すべく、小熊がカブを駐めている解体屋の入り口脇へと向かったところ、背後から蒸気の漏れる音がした。
棒人間に呼び止められた小熊が振り向くと、棒人間がまた蒸気を吐く音を発する。今は彼の言うことを何の問題もなく理解できる。もう彼のことは知らない関係じゃない。小熊は答えた。
「礼には及びません。藍地さんにはいつも世話になっていますから」
レクサスの女が駆け寄ってきて、小熊に言った。
「ありがとう。本当にありがとう。もしあなたの身に何か困ったことがあったら連絡して。必ず力になるわ」
小熊はレクサスの女がそう言いながら差し出した名刺を受け取る。紫の髪の少女は短く「ありがと」とだけ言って手を差し出す。少女は握手に応じた小熊の握力に圧された様子で手を引っ込め、カブに乗った小熊の姿を無遠慮に見ていたが、やがて棒人間のところに駆け寄っていった。
「ねー藍地、わたしもバイク欲しい。あの藍地のバイクちょうだい」
藍地は首を振る。少女はそれでも藍地の腕にぶら下がりおねだりをしている。レクサスの女は小熊が居るというのに、「バイクなんて危ない、頭の悪い人間が乗るものよ」と少女を諌めている。
藍地も少し言葉が足りないだけで、ちゃんとレクサスの女や紫の髪の少女と、人間関係というものが成り立っているように見えた、例えば家族みたいな。
小熊の跨っているカブの前カゴに、藍地が何か放り入れた。革製のケース。小熊が手に取って開けてみると、中身は工具だった。小熊の持っているステンレスの工具よりネズミ色がかったレンチやドライバーは軽く、風が吹いたら飛んでいきそう。
外側はご立派だけど中身は安物か、そう思い少々拍子抜けしつつも、タダで貰えるものならとありがたく頂戴した。
ヘルメットを被った小熊はカブのエンジンを始動させ、解体屋を後にした。
夕方、帰路に寄った学校前のスーパーで偶然会った礼子は、小熊が貰った工具を見て文字通り飛び上がった。
「これ!マクラーレンF1の車載工具よ!」
国内外を問わず車載工具というものは、いずれも必要最低限の品質で、小熊も解体屋では精度や強度に優れた工具は見つけられなかったが。例外は一部の欧州高級車。
オーナーの所有欲をくすぐる本革製の工具箱には、車体の価格に相応の一流メーカー製工具が納まっていて、特に一億円の値段を付けて売られたマクラーレンF1のFACOM製車載工具は、チタン製の最高級品で、センターロックナットレンチなどは原価だけでも十万円は下らないと言われている。
昼ドラ見物の積もりが予想外のトラブルに巻き込まれたと思ったら、思いかげぬ報酬を頂戴することになってしまった。小熊はそのFACOM製工具をカブの車載工具に加えつつ、もしかしたらこれは、小熊が取り戻した藍地の人間関係、その価値の一端なのかもしれないと思った。
暗灰色で吹けば飛ぶようなチタン製のレンチは、小熊の手にずしりと重く、なんだか光り輝いているように見えた。
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