第37話 機械の言葉
小熊は他人の昼ドラを盗み見る気など無かったが、解体部品の中に置かれていたカブの横にしゃがみこんでいたため、物陰から窺うように二人のやりとりを見せられることになった。
突然現れたスーツの女に一方的にまくしたてられた店長は、人間の頭部というよりボイラーかペール缶のような頭の角度を変えた。人に例えれば顔を上げたという表現にもなる。自分の予備の腕のように見える何かの部品を磨く手は止めない。
女は小熊が棒人間と呼んでいる店長が見せたほんの僅かな反応に、涙で濡れた目元を緩める。小熊には女の言う事より、年始の寒空の下でマルーンレッドのスーツという格好のほうが印象的だった。何の防備も無く風が通り抜ける。バイクに乗る人間にとっては裸に近い格好。きっと背後に停めている、スーツに合わせたのか濃いマルーンレッドのレクサスSUVは冷暖房が効いているんだろう。
棒人間のほうは夏も冬も変わらない灰色のツナギ。下に何か着込んでいるのかを確かめるほど間近で見たわけではないが、少なくとも小熊は、この棒人間が夏に汗を拭いたり、冬に手を擦ったりするところを見たことが無い。あの体が機械か何かなら暑さ寒さを感じることも無い。
スーツの女は泣き笑いの表情を浮かべながら言う。
「
小熊には興味の無い話だったが、少なくとも出入りしている店の人間について知っておくことは悪くない。何かの頼みごとをしに行く時に、下戸の相手に酒を持っていくようなことにならないように、あの棒人間がどういう経緯で解体屋の店長になったのかくらい、聞いても損は無いと思った。きっとそれは、さっきからカブをいじる手が止まってることへの言い訳。
棒人間は女の言葉に何の反応もしなかった。椅子の横に置いたテーブルから金属研磨用のコンパウンドと、すり合わせの確認をする光明丹を交互に取り、外科医のような手つきで部品を磨いている。作業の合間に発した、機関車が蒸気を吹くような音に女は反応する。
「わかってる。藍地くんがバイクのことが大好きだって。でも、こうするしか無かったの?ゼミでは皆が藍地くんを頼りにしていた、藍地くんが居なきゃ進められない研究が幾つもあった。それに、わたしの気持ちも」
小熊は何となく察した。この棒人間は何かを、おそらく大学の高等教育課程をドロップアウトしてきた人間だということ。シノさんの話では、バイクの世界にはそういう人間が時々居るらしい。ただの移動機械で趣味の一つに過ぎないバイクのために人生を棒に振る気持ちは、小熊もほんの少しわからないでもない。バイクだけでなく、釣りやゲームなど、単なる余暇の娯楽に過ぎないことが、それだけでは済まなくなる。その筆頭が男にとっての女で、女にとっての男だとシノさんはカッコつけて言っていたが、そっちはよくわからない。
棒人間は部品磨きを続けながら、また頭を動かし、蒸気漏れのような音を発てる。
女は悲しげな表情を浮かべた、それが心から出たものではなく、相手に見せるための顔だということくらい、同じ女の小熊にはわかる。
「藍地くんはいつもそう、自分に興味の無いことは一言で切り捨てる。わたしはただ、バイクの仕事をしながらでもいいから、藍地くんに大学に残ってほしかっただけなのに」
あのスーツの女には、棒人間の言うことがわかっているんだろうか。小熊も礼子が時々うんざりしたようなため息をついている時、何を言っているのかわかる時がある、あまり嬉しくない相互理解だか、あの女にとっては違うらしい。
棒人間がまた蒸気を吐く。
「そんな言い方しなくてもいいでしょう?片手間じゃできないって、人間は皆あなたみたいに純粋じゃないのよ。何もかも捨てて手に入れたのがこのガラクタの山?誰一人来ない、自分だけの世界で、ゴミに埋もれて朽ち果てるのが望みなの?」
小熊は自分が目立たない存在であることは知っていたが、ここではれっきとした客で、他にもこの解体屋を当てにしている人間は小熊の知る限り何人も居る。しかし、世の中にはそれを言ってわかる人間とわからない人間が居る。棒人間がまた蒸気を吐いた。
なぜか小熊にも彼の言っていることがわかる気がした。小熊もこんな物言いの女に対して返す言葉なんてそんなに無い。
「わかったわ。今日はもう帰るね、でもわたしは必ずあなたを、この一人ぼっちのお城から大学に連れ戻す」
今日の小熊は集中力が散漫になっていたせいか、今日は目当ての部品を見つけられなかった。とりあえずブレーキシューやワイヤー等の消耗品を手に取る、レジ前を塞いでいる迷惑な女もそろそろ退去しそうな雰囲気、時間的にも昼ドラ一本分くらいの暇は潰せた。
女がレクサスに乗って去った後、小熊は棒人間の座っている椅子の前にある机に、幾つかの部品が入った解体屋備え付けの買い物カゴを置く。棒人間はいつもと何ら変わらず部品を秤に載せ、重さから計算した値段を電卓に打ち込んで見せる。小熊は表示された金額を払って店を出た。
相変わらずどんな中古部品業者より安く、部品の状態も良好。こんな店に文句をつける女の気が知れないが、どちらにせよ小熊には関係の無いこと。小熊は表に停めていた自分のカブに乗り、帰路についた。
翌日、その日の午後も小熊は棒人間の解体屋に居た。そんなに毎日来るところでも無かったが、昨日は変な見世物で手がおろそかになり、必要な部品を買うことが出来なかった。帰りにカブが微かな異音を発したことで、急いで部品を手に入れなくてはいけないという事情があったし、シノさんから長坂の新聞屋で廃車になったカブが解体屋送りになったと聞いて、早めに行って部品を押さえておきたいと思った。
小熊が解体屋に着き、思ったとおり良好な状態で置かれていたカブに手をつけはじめたところで、あのレクサスの女がまたやってきた。
「あなたは今日もここで一人ぼっちなのね」
そこまで言った女の表情が変わるのがわかった。自分が見ているものが何かの幻であるかのように、そう願うように何度も解体屋の中を見回している。敷地は広いがあちこちに積まれた車体や部品のため、通路はそんなに広くない解体屋の中には、小熊以外の客が居た。
小熊と同じく解体屋行き車体の情報を聞きつけたらしき礼子が居た。礼子のハンターカブの後ろに乗せてもらったらしき椎も、この解体屋に時々入ってくる飲食業者向け車両の部品を漁っている。小熊が着た直後にモトラに乗った史がやってきた。乗り始めて早々に片方のミラーを壊して半ベソをかいている史を守るように、椎のリトルカブを借りたらしき慧海もついてきている。
あの女が誰一人客の居ない店と言った解体屋には、色々な客が来る。希少なバイクの修復を行っているレストア業者やバイク雑誌の関係者、メーカーの人間も本社にもう無い部品を探しに時々顔を出すという。
今日は解体屋の狭い空間に、五人の女子高生が居た。
表で何度か聞いた音がした、黒いフュージョンが店の前に停車した。どこかで転んだらしく片側に派手な擦り傷が出来ている。フュージョンを降り、ヘルメットを取ったのは、もう成人しているが女子高生どころか中学生に間違われる浮谷社長。
「藍地さんフュージョンの外装ある~?MF02フュージョンのサイドカバー~!明日までに直さないと小熊ちゃんに怒られる~!」
解体部品の発するオイルと鉄の臭いを圧するほどに、女子の匂いで満たされた空間で、相変わらず何かの部品を磨きながら、顔も上げず部品の山の奥を指差す棒人間、レクサスの女は震えながら言った。
「こ、これ、これがっ!藍地くんの望んだもの?」
棒人間はそうだとだけ答えた。少なくとも小熊にはそう聞こえた。
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