第35話 幽霊の足
冬の陽光に照らされた史は、相変わらず暗夜に浮かぶ月のように、自分の周囲だけを暗闇にする雰囲気を纏っていた。
小熊は史と一緒に居ると自分まで陰気になりそうな気がした。例外は季節や気候を問わず太陽のような魅力を発散している慧海。
史は勝手にモトラに乗ろうとした父親の恥ずかしい姿を見ても表情ひとつ変えず、小熊の居る場所まで漂ってきた。黒いカシミアのコートに隠された足が動いているような気配は無い。足そのものが無いのかもしれない。
慧海は史の後ろからついてきた。人の背に憑くのが幽霊なら、その背後に居るのは人を超越した存在。
史は小熊と礼子の前に来ても何も言おうとしない。小熊も史と向き合っていると、目の前に人が居るというより、バイクで夜の道路を走っていると時々出くわすという黒い靄を見た気分になる。
小熊より長くバイクに乗っている人たちから聞いた話では、その黒い靄は近くで人が死ぬ事故が起きた時に現れるという。あるいは自分が死ぬ時に。
自分から能動的に話しかけることが出来ないらしき史の替わりに、慧海が口を開いた。
「原付の免許と、登録ナンバーを取得してきました」
見た感じ手ぶらの慧海が自分の背中に手を突っ込む。小熊があげたバイク便ライダー用のメッシュベストを着ている慧海は、通常のライダー用ベストの背に入っているウレタン製の脊髄保護プロテクターを抜き取り、プロテクターの入っていたスペースをポケットに使っているらしい。
慧海が今まで使っていたような釣具屋の安物ではなく、海外アウトドアブランドで作られたベストには装備されている背中ポケットは、狩猟で撃ち取った鳥類や小動物を入れるため、獲物袋という意味でゲームポケットと呼ばれている。前面ポケットには入らない大判の書類やタブレットを入れられることが出来る背中ポケットを、慧海は便利な物入れとして使っている。慧海は高校に通う時、背中ポケットにグラミチのクライミングパンツ、前面ポケットに各種の装備を入れたベストを通学用のディパックに入れていて、慧海はいかなる時も窮屈な制服姿から即座にベストとクライミングパンツのアウトドアスタイルに変わることが出来る。
慧海が背中のポケットから取り出したのは、原付の標識だった。白く真新しいプレート。プレスされて間もないナンバープレートは、手が切れそうなくらいエッジが立っている。数字は何の語呂合わせにもならない微妙な数列。
「ご当地の図案入りナンバープレートが取れなかったのが残念でしたね。甲府や韮崎にはあっても、北杜にはまだ無いそうなので」
礼子はナンバーを手に取り、折り曲げられるかどうか固さを確かめている。昔は追ってきたパトカーから逃げ切るためにナンバーを折り曲げている原付をよく見かけたらしいが、今はそんなことをしたら制限速度を守っているも別の違反で捕まる。発言の割りに行動は臆病なところのある礼子もナンバーは曲げていない。
小熊は手を差し出しながら言った。
「免許は?」
史と慧海が同時にポケットから免許を取り出す。カードケースの類に入れず直でポケットに入れていたらしい。小熊もそうだった気がする。親や学校に扶助される子供じゃなく、社会への参加資格を有した一個の人格が成立した証。特に親の居ない小熊は、自分が不確かな存在でなくなった感触を何度も味わうため、ポケットの中で繰り返し触って、硬いカードの存在を確かめた。
見せられた慧海の免許証は、小熊が後に自動二輪免許を取得するまで持っていた原付免許とほぼ同じだった。違うのは住所と顔写真。慧海は誰が見ても写真映りと実際に見た時、二度美人だと言われる顔だと思った。礼子が頼みもしないのに二人に教えた裏技。免許取得時の写真を撮る時、膝に白いタオルを敷いてレフ板のように光を反射させることで、写真映りをよくする方法は効果があったらしい。
続いて史の免許証も見た。実際に見た時は陰気な印象を与える史の顔写真は、免許の提示を求めた警官がその写真を見たら、その晩は悪夢にうなされそうな顔だった。やっぱり礼子の教える事は役に立たない。
小熊は受け取ったナンバープレートをモトラの後部に付属のネジで取り付ける。これでこのモトラを再び走らせるため必要となる法制的な準備は整った。モトラ自体の機械としての機能も回復したことは、史の父親が実際に発進させて確かめている。変速や巡航が問題なく可能かどうかは、これから明らかになるだろうけど、小熊と礼子は、自分自身が整備した機械に自信を持っていた。壊れてなさそうなとこは触らない。とりあえず動くようにして走らせる。走らせておかしいようならまた直す。今までずっとそうしてきた。
あとは、史の準備。
史はまだ自分がこの原付に乗るという実感が無いらしい。小熊も正直なところ、この生命力に乏しい女がバイクで走り回る姿が想像できない。彼女の姿はモトラに不似合いすぎると思った小熊は、浮谷社長から貰ったプレゼントを思い出した。
カブの後部ボックスを開け、中身を取り出しながら史に言う。
「その服装はバイクに乗るのに向かない。これに着替えてきて」
史の着ている黒いロングコートは、バイクに数多く存在する回転部品に巻き込まれそうだと思った。低速なら転んで無様な姿を晒し、高価なカシミアのコートを台無しにすることになる。高速なら死ぬ。
小熊の差し出したジーンズを史は今まで見たことの無い物であるかのように、不思議な顔で見ていたが、自分の知らないものを知っていくことにしたらしく、ジーンズを手に取った。コートを肩から落とすようにして脱ぐ。慧海が従者のように史のコートを受け取ったのを見て、小熊は少し舌打ちをする。
小熊は今まで、史の不気味な雰囲気は黒いロングコートによるものではないかと思っていたが、その考えを改めた。コートの下はタートルネックのニットに、多段のギャザーのついたジプシースカートと呼ばれる長いスカート、いずれもコートより黒い。
黒いニットは体形を露にするが、女性らしいラインが無いけど男性っぽくもない。人ではないような体。もし小熊が史を知らない時期に、この姿で目の前に立たれたら、とうとうお迎えが来たかと勘違いしてしまうだろう。
頭の中で史の格好にジーンズを組み合わせてみたが、どうにもしっくり来ない。そう思った小熊は横を見た。史の父親。行きつけのパブでバイクに乗っているカッコいい姿を見せびらすためモトラを持ち出そうとした史の父は、上から下までパイロット姿できめている。
「済みません。この上着をちょっと借ります」
小熊が言いながら脱がせると、最初は「これ高価かったんだ!」と言っていた史の父は渋々といった感じで空自フライトジャケットを提供してくれた。
礼子がけらけらと笑いながら史の靴をチェックし、先が尖り踵の低い黒革のブーツにバイクに使うシューズとしての合格点を付けた後、コンテナのドアを開けた。
「中で着替えてくるといいわよ」
史は小熊から貰ったジーンズとフライトジャケットを抱え、コンテナの中へと消える。小熊と礼子はモトラの各部を最終確認した。慧海は果樹園に通じる私道の入り口まで走って行き、ゲートを閉めた。最初は果樹園の敷地内だけで練習させる積もりらしい。
史の父は娘の晴れ舞台に自分のトロンボーンを聞かせる積もりで背中の楽器ケースを下ろしたが、カッコつけのため持ってきたケースの中身が空であることを思い出し、替わりにスマホを取り出して自分の吹いた曲の音声ファイルを探している。
すぐにコンテナが開き、中から史が出てきた。
史の雰囲気は服装で変わるかと思っていた小熊の見立ては間違っていたらしい。ジーンズにフライトジャケットの活動的な姿になっても、史の周りに漂う黒い靄は消えなかった。喜んでいたのは史の父だけで、「妻の若い頃を思い出す」と言っていた。
史の父は聞いてもいないのに、小熊と礼子にスマホで史の母の画像を見せた。史によく似ていて、やはり黒い衣装の似合う悪魔のような女だった。ただし民話や伝承より、アダルトゲームに出てくるほうの悪魔。
小熊は史の母が旅行に出ていて不在であることに感謝した。もしこんな人が小熊の目の前に現れたら、きまぐれに人の命や幸運を奪っていくだろう。史の父を見た。明治か大正の文学者のような枯れた外貌を見るに、だいぶ生気を吸われた様子。
礼子が史をモトラに跨らせ、発進と変速の方法を教えた。史は言われた通りモトラのキックレバーを踏み下ろしたが、エンジンはパスンと音をたてるだけで始動しない。
バイクに数多くある、ただ押すだけのスイッチとは違う、微妙な操作が求められる箇所。キックレバーは教科書に書かれている通りのことをしただけで機能してくれない、小熊はキックレバーによって往復させられるピストンのあたりを指しながら言った。
「何度かちょっと踏んで、踏み応えのある場所を確かめる。それがピストンが一番上まで来る上死点。そこを捕まえたらキックレバーを蹴る。踏んで下ろすんじゃなく、蹴る」
史は言われた通りキックレバーを小刻みに動かし、上死点を探り、あまり太くは見えない足の筋肉を駆使してキックレバーを蹴った。レバーが足裏で滑る。エンジンは始動しない。
慧海が史の肩に触れようとした。慧海の脚力ならカブだけでなくハーレーのような大排気量バイクだろうとキック始動させられるだろう。小熊も今日は敷地内を走る練習だけ出来ればいい。始動は慧海がやってあげても問題ないだろうと思ったが、礼子が慧海を止めた。
「こんな楽しいことを取っちゃったらダメよ」
小熊と慧海は史の顔を見た。教えられた通りにやっても出来なかった史が、モトラと自分の足を見ている。どうしてだろう、何で自分は出来ないんだろう、疑問を抱いている顔。出来ない自分を諦めている顔じゃない。自分を嫌いになっている目ではない。どうして出来ないんだろう、こうしたら出来るかもしれない、やってみよう。出来なかったらまたやってみよう。史はキックレバーに足を乗せた。
「力が足りなきゃ体重を使え」
史の父の助言は無駄だった。既に史はそうしようとしている。自分の体重を乗せ、足の筋肉を使い、モトラのキックレバーを蹴り下ろした。
小熊と礼子がカブで聞きなれた音と共に、モトラのエンジンは回り始める。
始動成功し、振動するモトラに跨った史は、小熊たちを見た。自分のやったことが信じられないといった表情。でも、始動はまだほんの初歩。これからこういうことが何度も待っている。それがバイク。
こっそり横から手を伸ばし、モトラが始動しやすいようにスロットルをちょっと開けていた小熊は、腕を引っ込めて史に言った。
「走ってみなよ」
史は礼子から習った通りチェンジペダルを踏み下ろし、ギアを一速に入れた、おそるおそるスロットルを回す。モトラは走り出した。史の父がスマホでトロンボーンの独奏曲を流したが、スマホのスピーカーから流れる貧弱な音はモトラのエンジンが発するカブと同じ排気音と、モトラにしか無い極太の全地形対応タイヤが発てるロードノイズにかき消される。
道交法の適用されない私有地内ということで、ヘルメットを被らずモトラを走らせている史を見た小熊は、彼女の周囲を覆っていた黒い靄が晴れたことに気づいた。二速にギアチェンジしたモトラはまだ歩くくらいの速度だけど、バイクに乗る人間だけに吹く風が、史の黒い世界を払ってくれたように見えた。
黒く長い髪を後ろになびかせて走る史。隠されていた顔が露わになる。礼子がヒュウと口笛を吹くくらい整ったミステリアスな容姿。同級生の誰とも深く付き合おうとしなかった慧海が史と一緒に居る理由が少しわかった。誰だって美人には弱い。
果樹園の広い敷地を端まで走って戻ってきた史は、小熊の前でモトラを停める。相変わらず陰気な女。さっき見たのはスキーヤーがゲレンデで女の子と出会った時に見るような幻だったのかもしれない。とりあえず小熊はモトラという機械の動作と操作に関する感想だけを述べた。
「なかなか上手いよ。いつでも外を走れる」
礼子も史より走るモトラの姿に心奪われてる様子。
「さすがモトラ。これでどこにだって行けるわよ」
史は小熊と礼子に手を差し出した。
「ありがとうございます。本当に」
小熊は史と握手しながら思った。この子が生来持つ影はきっと消えることが無い。彼女にはモトラがある。これから起きる色々な出来事が、史を変えていく。そうすれば、黒い影を史の魅力にすら変えていくかもしれない。
陰気でひ弱で、黒の似合う女。でも、家から外に出たがらない幽霊だった史はバイクに乗ることになった。地に縛られていた彼女が、自分の意思で望む場所へと行ける。それは人がその生涯でもたらされる幾つもの変化のうちの一つに過ぎないが、この一つは小熊や慧海、そして史自身が思うよりずっと大きいのかもしれない。少なくとも小熊にとってスーパーカブという変化は、自分の世界を小さくするくらい大きかった。
史はどこにでも行ける足を手に入れ、走り出した。
幽霊に足が生えたら、それはもう幽霊じゃない。
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