第34話 男の子
予定より少し早い時間に果樹園前の県道まで来た小熊は、反対方向から来た礼子のハンターカブとはち合わせした。
いやなシンクロニシティだと思いつつ、小熊は自分のカブのエンジンを切る。そのまま果樹園へと至る私道まで、カブを押して歩いた。
小熊の主観では思慮に欠ける言動の多い礼子も察しは悪くない。礼子は小熊に倣い、アイドリングでもうるさい音をたてるハンターカブのエンジンを切って小熊と並んで歩いた。
普段はそんなことをしない。他車のすれちがいや追い抜きの邪魔にならないように、よほど広い道路でもない限り一列になる。普段は抜く側になることが多い礼子は、横並びのバイクや歩行者。あるいはパトカーに前方をふさがれる苛立ちについてよく知っている。
幹線道路を礼子と走っている時は自然に位置を前後に分けつつ、左右位置を微妙にずらす千鳥と呼ばれるフォーメーションになることが多く、椎もリトルカブに慣れるに従って、千鳥走行も出来るようになった。
小熊は片手で自分のカブを押しながら、横でハンターカブを押す礼子に手を出しながら言った。
「プラグ」
礼子はポケットから取り出したプラグを小熊の掌に落とした。モトラとカブ、それ以外の多くの原付バイクが共有している規格サイズの点火プラグ。
渡されたプラグは汚かった。表面がうっすら錆びていて泥と埃にまみれている。長く使われたというより、倉庫にずっと放置していたバイクに付けっ放しだったような感じになっていて、電極を見る限り長らく点火していない。
「外したでしょ」
小熊と礼子が修復していたモトラの最後の部品。このプラグが無かったためにモトラは始動させられなかった。最初から無かったわけではないことまで小熊は確かめていなかったが、欠品が無く部品取りに使っていたようには見えないモトラから、プラグだけが失われている可能性は低い。
「あのまま完成させたら、危ないと思ってね」
礼子の言いたいことはわかった。レストアともいえない分解洗浄であっさり直ったモトラ。あのままいつでも始動できる状態にすれば、それを見た持ち主がやることは、礼子の中ではもう決まっているらしい。明日は免許を取りナンバーを貰い、合法的に乗れるというのに、たった一日が待ちきれず、そのまま免許もナンバーも無いまま走り出してしまうだろう。
小熊には史と慧海がそんな大それたことをするようには思えなかった。史は転ばないよう誰かに後ろから支えられ、誰かに前を走って先導してもらわないと原付で走るなんてことは出来ないだろうし、慧海は何度かの職質経験で警察に捕まることの厄介さを知っている。
礼子は小熊の手からプラグを取りながら言った。
「人は見かけによらないってね」
小熊は自分がカブに乗り始めた時のことを思い出した。自転車より楽な乗り物で、自分の生活を変えようという軽い気持ちで買ったが、クラスの皆は小熊が原付でバイクに来たことに驚いていた。その中で興味を持って近づいてきたのが礼子。
他人が自分をどう見ているかなんて小熊にはどうでもよかった。礼子の無駄な気回しもそう。史が走りたいと思って走るなら、その先で史の身に何が起きたとしても、小熊には関係ないこと。一つわかることがあるとすれば、礼子がモトラから抜き取ったプラグは、そのままモトラに使うには不適切だということくらい。
エンジン点火装置であるプラグは、高圧電流を発生させるコイルから伸びたプラグコードをエンジンに接続する電極を兼ねている。表面が劣化し、バイクではなくオーディオのマニアなら必死で磨きなおすか交換するような状態になった接続端子は、いずれ点火不良を起こす。
あのモトラは燃料の詰まりで不動になったが、バイクが出先で突然始動不能を起こす可能性が最も高いのは、点火と電装のトラブルだということを、小熊は自身のカブで経験している。
「これを使う」
小熊はカブの後部ボックスを開け。中から小さな箱を取り出した。以前余分に買ったカブ用の未使用プラグ。エンジン構造が同一のモトラにも使用可能。
「準備がいいことで」
礼子は自分の上着のポケットから取り出したプラグを見せた。イリジウムプラグと呼ばれる高性能プラグ。
「それは早すぎる」
史がこのまま順調にあのモトラに乗るようになるとして、最高速度に近い高回転域で効果を発揮するイリジウムプラグが必要とは思えない。それに高性能なパーツというのは時に、その性能を体感したいと思うあまり、自分の技術に見合わぬ無茶な操作を招いてしまうことがある。
礼子が惜しそうにイリジウムプラグを引っ込めたところで、果樹園の倉庫が近づいてきた。コンテナの戸が半分開いている。もしかして史と慧海が無事免許取得と登録を終え、あるいは何かの理由でそれが不可能になって、もう居るのかもしれない。
小熊と礼子の耳が、同時に聞きなれた音を捉えた。
カブの音。あの倉庫の中にあったバイクで、カブ系のエンジンを積んでいたのはモトラだけ、もしかして史はどこかからプラグを手に入れ、バイクを知らない人間には危険な遊びをしているのかもしれない。小熊と礼子は足を早めた。
各々自分のカブを倉庫横に停め、ドアを開けようとしたところで、中からモトラが出てきた。乗っていたのは、史の父親。
青いパイロットヘルメットを被った史の父は小熊たちを見て、モトラを足で後退させて倉庫の中に引っ込もうとした。小熊は閉められる前にドアを押さえ、礼子は中に押し入る。
「何をしていたんですか?」
史の父はモトラに跨ったまま、妙に口数多く早口な口調で説明した。
「いや、外でトロンボーンの練習をしようとしたんだ、私たち金管を吹く人間は、練習する場所を見つけるのも大変で、よく川原や広い公園で練習をするのだが、うちの畑で吹こうと思ったところで、ちょうど、いや偶然に、君たちがここで原付を直していることを思い出して、心配になってちょっと様子を見に来たんだ、そこでこの原付を見つけて、そうだ今日は別の場所で練習するのもいいだろうと思って、その」
礼子がぺらぺらと言い訳をする史の父を上目遣いに見ながら言った。
「乗ってみたかったんでしょ?」
史の父はうなだれた。話を聞くまでもなく、陸自の音楽隊に所属しているにも係わらず空自の物らしきフライトスーツとジャケット、ブルーインパルス仕様のヘルメットまで揃えた姿を見れば、何か恥ずかしいことをしようとしていたのは明らか。
小熊は史の父が背負っていた楽器ケースを叩く。トロンボーンの練習のためと称していたのに、中身が空っぽの音。どうやら単にかっこつけのために持ってきたらしい。シノさんも以前「ギターを背負ってバイクに乗るのってカッコいいよな」と言っていて、礼子はわかると言っていたが、全くわからない自分はバイクを理解していないのか、それともそこまでバカでないことを幸運に思えばいいのか、小熊にはわからない。
モトラには既に史の父が近くの農機具屋かホームセンターにでも行って買ってきたらしき新品のプラグが付いていて、小熊の持ってきたプラグは無駄になった。
「悪気は無かったのだ、韮崎のパブに居る女の子に、あなたはいつもオーケストラの話ばかり、もっと活動的な趣味を始めれば魅力的になると言われて、ちょっと見せびらかしたくなっただけなんだ」
礼子が呆れ顔で言う。
「原付じゃ締まらないわよ」
男のカッコつけなんてわからないし、理解したくもなかった小熊も、思ったことをそのまま言った。
「私が車やバイクに乗って酒を飲みに来る男を見たら、思慮と危機感に欠けた奴だと思うことはあっても魅惑されることは無い」
すっかり消沈した様子の史の父は小熊と礼子に手を合わせ「どうか娘には内緒にしておいてくれ」と言いつつこっそり逃げ出そうとした。小熊たちとの対面もそうだが、今日は史の父にとってタイミングが悪い日だったらしく、史の父がモトラを倉庫に再びしまうため跨ったその時、向こうから史と慧海がやってきた。
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