スーパーカブ4
トネ コーケン
第1話 一人
高校生活最後の冬は、去年ほど寒くなかった。
スマホで見たネットニュースの気象情報によれば、例年より寒の入りが遅いというだけで、特に暖冬という単語は見かけなかったが、体感的な気温は去年の今頃より上がっている。
きっとバイクに乗るようになって初めての冬を、経験も装備も貧弱なままで迎えた高校二年の頃とは、色々と変わったことがあったんだろう。
甲府でのバイトを済ませた小熊は、十二月の後半にさしかかった甲府の幹線道路をスーパーカブで走りながら、カブに取り付けられたウインドシールドと呼ばれる透明な風防に指先で触れた。
ウインドシールドだけでなく、ハンドルカバーや未脱脂ウールの手袋とソックス、冷気が襟元に入るのを防ぐネックガードなど、バイクという冬には不利な乗り物で、去年の冷気に幾度も挑む中で選別を繰り返した防寒装備が、冬の間カブに乗ることから苦痛を取り去ってくれる。
去年の冬に中古で買い、高性能ながら着脱も容易な防寒服として役立ってくれたKLIMのスキーウェアは、真夏でも防寒服が必要な富士山登頂であちこちを破り、繕い直して着るには強度も見栄えも無理があったので捨ててしまったが、上下ツナギのスキーウェアが、対摩擦性能ではバイク専用品に一歩譲ることに目を瞑れば良好な防寒装備だという経験は残ったので、今年の冬は少し奮発してワークマン・イージスの防寒ツナギを買った。
イージスは使ってみたところ予想以上の優れもので、買ってしばらくの間は寒空の下を走るのが楽しみにすらなった。防寒ツナギの下に着ているリー・ライダースのデニム上下は、カブを買ってすぐの頃から着ていて、ジェームズ・ディーンが生涯愛用したH.Dリー特有の腰まわりのたっぷりとしたシルエットによる体の動かしやすさも、少々の転倒では擦り切れることのない強度も実際に使って確かめている。デニムの更に下に身に着けているダマールの肌着も、故ダイアナ妃が愛用していたこともあって、肌触りも防寒性も極めて良好。
防寒装備については、何度か失敗や散財もしたけど、結果としていい買い物をしたと思っている。奨学金とバイトで貯めた貴重な金を、最良の形で使うことが出来た。
それに、これらの物々を手に入れるために必要としたのは、金だけじゃない。
ハンドルカバーは同じくカブに乗る同級生の礼子とカブで走り回る中で見つけた。ウインドシールドを買った時は、効果が未知数なものに金を使うべきか迷った時、礼子の知り合いの信金課長がウインドシールド付きのカブ営業車を試乗させてくれた。手袋とソックスは、カブで文化祭の準備を手伝ったことで友達になった椎から貰った未脱脂ウールのセーターを、小熊が以後在籍することになる高校手芸部の顧問教師が編み機で仕立て直してくれたもの。
英語を担当している手芸部教師は、全身を今から極地に行くような~事実冬のバイクの体感温度は極圏より過酷なこともある~防寒装備で固めた小熊を見て「All the good ones」と言った。「あなたは数多くの選択の中から最良のものだけを選んだ」という意味らしい。
ダマールの肌着は実態の無い人間関係の集積ともいえるネットの中で特売の情報を知ることが出来たからこそ、新品では手の出ないフランス製の肌着が買えた。KLIMのスキーウェアは何度か顔を出しているうちに馴染みになったリサイクルショップが、真冬でもカブに乗って店に来る小熊のために、普通の客にはやらない取り置きをしてくれた。
日本国内ブランドのデニムよりずっと値の張るリーのデニムと、それを穿く時に締めるビアンキM9のベルトは、あまり人間関係とは認めたくないが失踪した母親が考え無しに買ったきりタンスに放置していた物。
今日のバイトも、去年初めて経験したバイトで、カブで書類輸送を行う学校業務の手伝いをしたことが縁で出会った他校教師の縁で紹介してもらったバイク便の仕事。
小熊は、自分は物質的な防寒装備だけでなく、目に見えぬ暖かい物に包まれているのかもしれないと思った。車体の中心でガソリン燃焼による火を灯し、冷たい鉄のエンジンを熱しながら前進の力を得るスーパーカブが、小熊を色々な人と繋いでくれた。
カブに乗っている限り、いや乗っていなくともカブに乗っている時のように生きていくならば、この世界は寒くない。そう思った小熊は、一人暮らしのアパートへの帰路についた。
車やバイクや自転車、そして歩行者など、あらゆる人の感情に触れながら走っている道の上を走っていた小熊は、これからカブを駐輪場に置き、あのワンルームの部屋に帰ると、また自分は一人になることに気づいた。それも悪くないと思う。
様々な人間関係を広げるのもいいけど、どんな人間と一緒に居ても、一人になる時間の楽しさには勝てないんじゃないかと思う。だから小熊は、電車や車のような皆と一緒にどこかに行ける移動手段より、カブで走ることを好んでいる。
特に、翌日に高校の終業式を控え、高校の教室と体育館に詰め込まれる濃厚すぎる人間関係に、今から少々胸焼けしそうな時はなおさら。
自分の部屋に戻った小熊は、灯りを点ける前にラジオのスイッチを入れ、流れてきたFMの旧いカントリーミュージックを聞きながら、暗い一人の部屋でカーテンを開けた。窓の外にトタン屋根の駐輪場が見える。盗難リスクの高いカブを盗まれないように、入居して以来ずっと切れている屋外照明を直してくれるよう管理会社に要望したおかげで、今は駐輪場がLEDの屋外灯で明るく照らされている。入居者の乗っている何台かの自転車や原付と共に、小熊のスーパーカブと、カブを買う以前から乗っているパナソニック・レギュラーの自転車が駐められている。
一人の部屋でカブを眺めながら思った。バイクは物言わぬ機械で、恋人にも友達にもなれない。
でも、カブがありる限り、カブに乗り続ける気持ちがある限り、自分は一人じゃない。
カーテンとシャッター雨戸を閉め、室内の灯りを点けた小熊は、ラジオから流れてきたFMに少々不似合いな昭和歌謡を聞きながら、夕食の準備を始めた。
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