第18話 史

 小熊は今までの人生で、科学や物理学の範囲外にあるものを見たことが無かった。

 どんなに霊感の無い人間でも異変を感じるという厨子のトンネルや奥多摩の花魁淵、八王子城址や青木が原や宮ヶ瀬湖に行っても、静かでいいところだなとしか思わなかった。

 大概そういう場所は、書物やネットに流布するオカルト話を他所に、地元の人にはウォーキングや山菜取り、子供の冒険ゴッコの場所として親しまれている。

 しかし小熊は、慧海の背後にあるものを表現するものとして、幽霊以外の言葉は思いつかなかった。


 黒い衣に白い肌、全体的に半分透けているような姿。顔のある辺りには、境内の灯りを吸収する洞のような目がある。

 神社の境内という、人ならざる者に似合わぬ場所に現れた幽霊は、森の木々の間を散歩するように悠然と歩く慧海のすぐ後ろを、漂うように付き従っている。

 小熊は自分がどうすればいいのか迷った。今すぐ慧海のところまで駆け寄って、幽霊に憑かれているなんて言い出せば、変な人間だと思われる。何より自分の目で見た物だけを信じる慧海に、世に多く居る曖昧なイメージだけで物事を恐れる人間と同じなのかと失望されるかもしれない。

 かといってこのまま見なかった事にするのも気が進まない。そう思っていた小熊は、唐突に理由を得ることになる。

 慧海は背後を振り返り、肩越しに幽霊を見た。

「階段があるから気をつけて」

 慧海の差し出した手に、幽霊の白い蛇のような手が巻きつくのを見た小熊は、持っていたタコヤキを社長に押し付け、慧海の元へと駆け寄った。


 小熊が最初の一歩を踏み出した時、慧海は既に足音で気づいたらしく、小熊を見て手を振った。もう片方の手は、幽霊とつながれている。小熊は出来るだけ偶然を装って声をかける。

「来てたんだ?」

 慧海は短く「ええ」と言った後で、軽く頭を下げながら言った。

「あけましておめでとうございます」

 さっきから鳴っていた除夜の鐘が聞こえなくなったと思ったら、いつのまにか年が明けていた。年始の挨拶など考えていなかった小熊は、不器用に頭を頷かせ「おめでとう」と返す。

「お仕事中ですか?」

 小熊の格好を見た慧海の言葉に、もう一度頷いた小熊は、背後に手を伸ばして、タコヤキを食べながらついてきた社長の腕を掴む。

「紹介したほうがいいかな、この人は私の働いているバイク便会社の社長」

 社長は小熊の背後から手を伸ばし、慧海に握手する。人見知りしていた様子の社長は、慧海のミステリアスな容姿と、逞しい握力に触れ、ちょっと興味を抱いている様子。


 小熊は慧海を見て、それから慧海の背後に居る幽霊をチラチラと見た。こっちが社長を紹介したんだから、そっちも連れている奴について教えろという無言の意思は、慧海に通じたのかどうか。

 自然界に存在する危険に対し敏感な慧海は、人間の感情に関しても鈍い女ではないらしく、幽霊の手を引きながら言った。

「同じクラスの伊藤です」

 背後に居る者の正体はわかった。しかし幽霊にしか見えないという小熊の感想は、間近で見ても変わらなかった。

 夜闇に溶け込むような黒く長い髪。人の血が通っているとは思えない白い顔。黒曜石のような目からは感情が伺えず。唇だけが赤く目立つ。

 慧海の姿を見て顔を赤らめていた社長は、その伊藤なる人間を見た途端、小熊の背後に隠れて震えている。

 小熊は思わず、その伊藤という女に足があるのか探したが、地面を擦るほど裾の長い、黒いカシミアのコートで隠れて見えない。小熊が握手の手を差し出すと、恐る恐る手を出し、握ってきた。握力は弱いのに小熊の手に絡み付いてくるような指は、冷たかった。


 小熊はまだ後ろに隠れてる社長の背を押し、挨拶させた。 

「浮谷 東です。共同輸送社の社長をしています」

 小熊はいまさら社長のフルネームを知った。社名がかつて最速のプレスライダーを擁していると言われた、共同通信社に倣って付けられたことは以前聞いたことがある。

「伊藤 史です」

 慧海が横で付け加えた。

「史が霊園の中を通る近道の前で、怖がって歩けずに居るのを見て、ここまで連れてきました」

 確かに墓場に現れる物々が人より余分に見えそうな顔をしている。それにしても、互いに呼び捨ての仲なのかと思った。

 年が明けたので慌しく参拝を済ませる。小熊が横目で盗み見ると、史はここに祀られているものが見えているかのように、薄く笑っていた。  

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