第一章 感染者──十項

 ギデオンが突然大きく地を蹴り上げて、男の傍から飛び退いた。隙を見計らっているのか、じりじりと砂を踏みにじって後ろへ下がっていくのが聞こえてくる。男はまったく動じなかった。階段は己の背にあり、いざとなった際の逃げ道には困らない。それにギデオンの挙動は終始、耳で監視しているのだ、不審な行動には即座に対応出来る。


「ついこの間も、財団Vulgarの探索者がふたり、この先の閉鎖病棟へ訪ねてきてね。狙いは君と同じ、だ。だがあいつの周りには山ほどの重篤感染体が潜んでる。私は組織の犬どもが生きて戻ってこられる可能性が無いのをわかってて、ここまで案内してやったんだ」

「ああ知ってるさ、俺の直属の可愛い部下共だったからな」


 真っ直ぐな廊下の先、ギデオンの背後の方で、誰かが虚ろな声を発した。生気も意識も朦朧とした、本能のままに震える声帯から出た声だった。男はこの瞬間、空気の質が一変したことに気がついていた。風の流れや気圧の変化が原因ではない。彼には覚えがあった、これは、


「だから君もこのまま死へと進むんだ! あの子をここから連れ出せるとは思うなよ!」


 人間が張り裂けんばかりに感情を膨れ上がらせた時に起こる、心の圧力による変化なのだ。怒り狂ったギデオンが再び地を蹴って、暗がりの中を一直線に此方へと飛び掛ってくる。男は動かなかった。動くつもりも無いのだった。ギデオンの荒い呼吸が近付いてくる。食いしばった歯の擦れる音が、軋む腕の骨の声が聞こえる。固く握られた拳が、男の顔目がけて突き出される──


「──らいじ危ない」


 それは実に、瞬く間のことであった。男の脇を掠めて現れた、彼より頭ひとつ分も大きな人影が目と鼻の先に割り入って、少しも押されることなくギデオンの渾身の拳と体当たりとを止めてしまったのだ。これにはギデオンもたいそう驚いたようだった。脱兎の如く飛び退いて、悔しげに音を漏らしたのが聞こえる。


「グッボーイ、だ。淑慰しゅくい

「らいじ、いっぱい探したんだよ。どこにいたの」


 淑慰、と呼ばれた巨影が、腰元に下げた小ぶりな物入れから短い円筒状のものを取り出した。彼がそれを軽くへし折ると、筒から眩いばかりの白光が弾けた。かつて軍が夜間の光源として用いたとされる、閃光筒せんこうとうという消耗品である。

 それは十分すぎる光で辺りを映し出した。そこで初めて顕になったのは、灰色のコンクリートに囲まれた廊下とカビた天井、スーツ姿で眼鏡を掛けた男、傍らに寄り添う黒づくめの男、そこからかなり距離を置いた先で身を竦ませた、脂っこい黒髪の男だった。

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