第一章 感染者──四二項

 雷路がまた一本、煙草を咥えて火をつけた。鼻腔から吐き出した煙が彼の目先に白くもやをかける。彼はひとつゆっくりと瞬いてもう一口、今度はじっくりとその香りと味を楽しむ。ハンドルを握る手の人差し指でコツコツと拍子を取りながら、彼は言葉を探り探り語り始める。


「昔、財団ウチに居たことがあるならまあある程度は知った話だと思うが、今一度、確認の意味も含めて説明させてくれ」

「変わったことも多いだろうから、そうしてくれると嬉しいよ。それに私はいつだって無知な男だった、きっと知っていることの方が少ないさ」

「なら良い。さて、そうだな。まず基本的なところから話そうか──」


 公益財団法人“Vulgar”は、日本に本部を置く遺伝子工学研究組織である。例の感染症が本格的に猛威を奮って至る地をも呑み込まんとしていた二〇四一年春、被害を最小限に留めていた日本より、世界へ向けてある論文が発表された。テーマは「遺伝子組み換えヒト体“アジャステッド・ヒューマン”出生技術とそれに伴う倫理・人権について」。内容はごくありふれた、研究者個人の倫理観に準ずる研究結果と感想文であったのだが、これにはもう一つ重大な意味を持つが隠されていた。

 財団はこの時、実際に上記技術を用いて出生した個体を幾つか保有していた。それらの情報が世の平々凡々たる民に知られることは決して無かったが、世界各国、特に例の感染症によって脅かされていたイギリスや中国、アメリカが所有する国立機関の研究者らには真っ先に伝えられた。それが目的だったからだ。そして各国のエージェントが秘密裏に日本を訪れ、ひとりの研究者、つまりは論文を発表した当人からこの論文の裏に隠された真実を聞かされた。

 例の感染症に対する抗体を持った遺伝子の存在をWHOが認知したのは、所属のエージェントが日本へ赴いていた際の偶然の情報入手を報告する電話を受けた時だった。論文発表から実に半年ほどが経過していた。初め、その情報の真偽を問わずWHOは現実的に考えて都合が良すぎた発見であることやあまりにも短期間で確立された技術への信憑性・安全性の欠陥等を指摘し、全くと言っていいほど相手にしなかったとか。しかし当のエージェントは引き下がらなかった。例え小指の先にも及ばないような希望であっても、今我々が縋れる奇跡ならば信じる他無く、これをアテにしないと言うならば一体他のどんな術を以て病に立ち向かうつもりなのか──彼女の言葉は多の心に揺さぶりをかけた。最高責任者はこれを受けて正式な対策例報告として上件を認知することを示し、数人の重要職員らを引き連れて日本へ足を運んだのだった。

 件の財団の最高責任者との会談、及び協定締結までに要した日数はごく僅かなものであった。これにより晴れてWHOは財団“Vulgar”から前向きな協力と献身的な援助を得ることが約束された。我々は縋られた藁なのだな、と財団の責任者は笑っていたという。

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