第一章 感染者──四三項

「待ってくれ雷路。それはその、本当の話なのかい? 遺伝子に抗体だって?」

「抗体とは言っても、その抵抗力がどの程度かまではまだはっきりしていないがな。症状の発現を抑えるだけなのか、はたまた完全シャットアウトか」

「確か君は地下へ入る時、私に“自身は感染しない”と──」

「ああ、それはまた別の話なんだギディ。そっちは着いたら詳しく話そう」


 何度も頷きながら話を聞いていたギデオンが、後部座席から身を乗り出して食いついてきた。それもそうである。雷路たち組織の人間には日常的な話だとしても、民間人やギデオン、ナチのような放浪する探索者たちには“もっとも身近でもっとも疎遠”な世間事情の、核心ともタブーとも言える部分を突然すべて知るようなもの。それまでただの名もない弱者であった男が、ある日を境に世界の重大な秘密を知る特別な存在の一人になったのだ。これが望んでのことか否かに関わらず、少なくともギデオン自身が後戻りを許されないところまで来てしまった事実には変わりなかった。覚悟はとうに出来ていたつもりでも、やはり膝は震えてしまう。


「私はその、恐ろしくも栄えある名誉の研究に手を貸す一人に? その先の終末で、私が善人であったか悪人であったかを裁くのは神でも仏でもなく“人間”であると言うのかい……?」

「お前なら期待を裏切らない活躍が出来ると信じているさ、ギディ。大丈夫だ、向かう先は皆同じ。お前が悪人になる時は俺も組織もみんな同等に裁かれるのさ」


 あれだけ執拗に降り続いていた雨がすっかり止んで、夜のように暗かった空に紅が差し始めた。陽がちょうど地平線の陰へと落ちようとしているところだった。

 ギデオンがシートへ背中を預けるまでをバックミラー越しに眺めていた雷路の双眸が、フロントガラスの向こうで沈みゆく紅へ意識を移した。日の終わりを知ってここから去ろうという時であるのに、太陽のやつはまだ煌々と輝いているのだった。それがどうにも眩しく見えて、気持ち目を細める。口腔内に誘い入れた煙の香ばしくも甘い香りについ、心が蕩けそうになった。


「ねえギデオン。なんだかむつかしい話みたいだけれど、何の話をしていたの?」

「ん、ナチ、大丈夫だよ。君はわからなくていい。わからない方がいいことだってあるんだ」

「ふうん」


 ずっと大人しくして雷路とギデオンを代わる代わる様子見していたナチが、控えめな声量で口を開いた。応えたギデオンの真っ直ぐな言葉が雷路の胸に刺さる。わからない方がいいことだってある──それはまさに真実に違いなかった。わからない方がいいこと。この世界にはそんなことばかりだった。無知が幸福を得る世界。その通り。


「それはどうだろうな」


 雷路の指が拍を取るのをやめた。西陽がもう頭の先だけを残しておおよそ沈みきってしまった頃だった。真実を真実と認めながらも、素直に賛同は出来かねた自分がまた性懲りも無く嘘をついた。無知であることが幸福をもたらすとわかっていても、無知のままではいられない己が天邪鬼に駄々をこねたのだった。煙を一口、口角がにやりと持ち上がる。目指す場所まではまだ、遠い。

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