第一章 感染者──四四頁
六、
起きろ、と呼びかけられて目を覚ましたギデオンのすぐ隣では、こぢんまりとした少女ナチが不安気な表情を面に浮かせてこちらを覗き込んでいた。運転席から降りた男が自分の目と鼻の先のドアを開けて乱雑にギデオンの上体を持ち上げる。途中、手首がシートと手錠の圧迫に痛みを覚えて声を漏らしたが、運転手は特に謝りもせず、代わりにずいと顔を寄せてきた。
「着いたぞ。お前たちの新しい家だ」
雷路が顎でフロントガラスの向こう側を指す。それが示す先にあったのは、目に眩しい朝陽の煌めきと、古めかしくも厳かな石レンガの塀と、その奥に鎮座する真っ白な石壁の大規模施設だった。
ギデオンの脳みその端っこが、此処に覚えがあると訴えかけてきた。年季のある風貌と、何処か近寄り難い雰囲気を醸す建物。枯れた噴水を中央にして敷き詰められた割れタイルの灰色の道。建物を匿うかのように生い茂った背の高いオークの木々。初めはうっすらとした遠い記憶が、段々と濃く、鮮明になっていく。覚えている。エントランスを抜けた先の大階段。大理石の輝く床と豪奢なシャンデリア。元は、病院を取り壊して建てられた宗教施設跡と聞いている。正面から見た限りは特筆するほど広いとは言えないが、実はそこそこ奥行きのある建物であり、その辺の下手な金持ちの敷地よりもずっと広大な面積を有している。
「懐かしいか?」
「いや、まあ、そうなのかな」
「構わないが、俺が上に話をつけるまで、あんまりうろつくなよ。中の探検は明日にしよう」
雷路がギデオンの手錠を外して車の外へ引っ張り出す。申し訳程度に服のシワを払いながら振り向けば、ナチも同様に自由を得られるところだった。建物に視線を戻してふらふらと、誘われるように歩み出す。アーチを持つ縦長の硝子窓。中央エントランスの上部ではためく、桜の花を模した背景に燃えるような赤の“遺伝子の楔”を掲げる旗。足元を漂う、妙に重く冷たい空気。恐らく最後の感覚は緊張や不安が見せた幻覚だろうが、やはりすべてに覚えがあった。今からもう何年以上も昔、ほんの僅かな間だけ己が生きた場所。右も左もわからないままに、叱咤されるばかりの日々を過ごしたあの場所。公益財団法人“Vulgar”、イギリスはウェールズ地方ブリジェンド支部だった。
「おうい、ギディ。俺から離れるな。撃ち殺されるぞ」
「あ、ああ、ごめんよ。つい」
「淑慰、こいつらがどっか行かないように捕まえておいてくれるか」
ナチの手を握ってにこりと微笑んだ淑慰が、此方へ来てギデオンの手首も握る。それに怯んでみせたギデオンの目に映ったのは、真っ直ぐで曇りのない紫色の煌めきだった。この淑慰という男には、一切の邪念というものが感じられない。今はただ、言われた通りにふたりの獲物を捕まえているだけなのだ。それ以外には何も無い。自身の役目を果たすだけ。全身全霊で言いつけを守るだけ。
「ついて来い。とりあえず話がつくまでは俺の部屋に居てもらうぞ」
雷路がギデオンの鼻先で手を振った。どうやら淑慰の瞳の色に意識を呑まれていたらしい。それがなんだか恥ずかしくなって咳払いをしていると、淑慰がふたつの手を引いて歩き出した。
先頭を行く雷路の背中は、小柄な体躯を思わせないほど逞しく見えた。ワイシャツとベストでしっかりと固めた後ろ姿は歳の割に大人びている。こんなに若いというのに、自身よりも立派な格好をしている彼を見つめているうちに、ギデオンは訳もなく、歩く自分の爪先を睨みつけていた。右足と左足はこうやって、抜きつ抜かれつ支え合いながら前に進んでいくというのに──自分はこんな歳まで何をやっていたのだろうと考える。今、己の前を行く雷路という男は、人生ですらも己の前を行っているのだ。
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