第一章 感染者──四五頁

「昔此処に居た時は何をやってた?」

「何ってわけじゃないよ。ただの使いっ走りさ」

疾駆者ランナーか」


 崩れたコンクリート地面から、割れた石タイルを踏むようになった。隙間から雑草が生い茂っている。顔を上げてみれば、目の前の枯れた噴水を囲うようにそれは円を描いていて、そこからさらに奥のエントランスへ向かってほんのり蛇行しながら伸びている。脇には花壇だったものやベンチの残骸がそのままになっていた。手入れされていた頃は綺麗な庭先だったのだろう。


「残念だが、お前に役割を与えてやることは出来ても、その役割の内容を過去より良い物にしてやるのは難しい。もしまた疾駆者からやり直しになったとしても、俺を恨まないでくれないか」

「恨むなんて、とんでもない! 生かしてもらえただけでも嬉しいよ。どんな仕事だって、ナチのために頑張るさ」

「ん」


人気ひとけのない庭先を抜けてエントランスの門をくぐる。足元が急に立派な石畳に変わったかと思えば、巨大な硝子扉の向こうから微かな喧騒が漏れ出して聞こえてきた。ギデオンは正直、高揚感を覚えていた。当時、自身が居た頃は大した評価も得られない小さな日本のいち組織の支部だった此処が、今や風の噂で日に一度は話を聞くような大きな存在となった。そんな場所に、再び戻ってこられたのだ。少なくとも、食料の枯渇や感染者の襲撃に怯えなくても済むであろう、働き口のある場所に、だ。つまり、自身の無力さに震えながら腹を空かせるだけの毎日が終わりを告げたということ。十年も昔、まだ当たり前の生活を世界中の人間が当たり前のように出来ていた頃とほとんど変わらない生活が、此処にはある。


「俺はこのまま用を済ませに行ってくる。それまでは淑慰と一緒に俺の部屋に居てくれギディ。淑慰、案内は頼んだぞ。それと」


 扉を開ければそこは、ギデオンにとっても初めての光景が広がっていた。思い思いの服装で何やら取引をする探索者サバイバーたち、忙しなく早足でそこらじゅうを闊歩する白衣姿の人間たち。飛び交うのは聞き慣れた英語だけではない。騒々しい、という言葉がぴったりだった。大理石の床を踏み締める足音に存在すら掻き消されてしまいそうなエントランスホールを見渡せば、中央の大階段の途中の別れ目も、二階通路の端までも、すれ違うのに身体を捻らなければならないほどの数の人間が何かに急かされるように歩き回っている。吹き抜けの天井から吊り下げられた豪華絢爛なシャンデリアの明かりの下、此処ではそれほどまでに多くの、無数の人間が生活しているのだった。


「ナチ、お前は俺と来い。しばらく会えないだろうからな、ギデオンにちゃんとサヨナラは言っておけ」


 人混みが上手に雷路の小さな身体を避けていく中で、自分は何度も肩をぶつけられながらギデオンは、巨体を挟んで反対側のナチと話すために首を伸ばした。彼女は不安に押しつぶされそうな顔をして、ずいぶん縮こまっていた。大丈夫だよ、と声をかけてやるが、あまり変化は見られない。生まれて初めての環境に臆したのか、はたまたギデオンとの別れを悲しんでいるのか。彼女は床と雷路とギデオンを行ったり来たりで見やりながら、小さな声で怖い、とだけ呟いた。

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