第一章 感染者──四六頁

 心配そうな眼差しに見送られながら、ナチは雷路に背を押されて人の群れの中をよたよたと進んでいく。皆ナチよりも背が高く、どの目も鋭かった。視線が重なる度に無機質な感情を受け取る。恐らく此処に居るすべての人間はナチに興味などこれっぽちも無い。

 こんなにも密集しているというのに、誰一人身体をぶつけることなく往来する姿は、なんだかロボットのようでもあった。精密に人と人との間隔を測って避けているのではないかと思うほどに的確に、彼らは互いを避けて進む。その中を遠慮なく真っ直ぐに突き進む雷路とナチを、初めからわかっていたかのように容易く回避していく。奇妙な感覚だった。自分だけが人間で、他はすべて機械のよう。この場に正しい感情を持って息をしているのは自分だけかと錯覚してしまうほど、それは本当に不可思議なものだった。


「いいか、ナチ。これからお前の世話をしてくれる奴のところへ行く。今日からはそいつに面倒をみてもらうんだ。大人しく言うことは聞いておけよ」

「······殺されない?」

「今のところは」


 雷路がにやりと意地悪に笑う。黒目が据わった蜂蜜色が、どちらもナチを見下ろして愉快そうにしているのだった。

 少し進んだ先にはまた大きな木扉が存在していて、辺りとは一風変わった静けさを醸していた。真鍮のドアレバーの両端には獅子のような彫り物が施されている。扉をゆっくりと押し開いて現れたのは、それはそれは長く続く全面硝子張りの広い連絡通路だった。


「すごく、広いのね」

「そうだな。此処に住んでる人間の数が多いからな」


 背を押されて歩いていたナチが、自然と自分の足で前に出る。このご時世、こんなにも綺麗な状態の建物など見るのは初めてだった。遠い昔、まだ世界が混乱と絶望に堕ちていなかった頃、よく父母に連れられて遊びに行った大きな街にはこれだけの建物が幾つも建ち並んでいたのを思い出す。洒落た赤レンガのカフェやシックな帽子屋、おどろおどろしい占いの館なんかが並ぶ街並みをああでもないこうでもないと他愛もない話をしながら歩いた日。ナチの幼い記憶の中にこの建物があったとしても違和感が無いくらいに此処は立派に手の行き届いた美しい場所だった。


「あとで探検なんかをしてもいいの?」

「俺は構わないが、世話係が許すかな」

「頼んでみても?」

「好きにしろ」


 雷路の笑い声の尻尾が独特の音を引く。ナチはつい先程までの気持ちとは一転、溢れ出る興味や関心を擽られて、心を踊らせているのだった。長いこと暮らしていたあの窮屈な湿った地下とは違う、地平線を眺める見晴らしのいい環境。暑くも寒くもなく、無愛想とはいえ人が山ほどいて、孤独を感じない素晴らしい場所。注ぎ込む朝陽を全身に浴びながら、初めてナチが雷路の前で微笑んだ。硝子へ駆け寄って少し背伸びをすれば、奥に見える塀の上から外すら見えてしまいそうだった。オークの葉が作った木陰と名も知らぬ野の花。ナチにとってこの瞬間は、久しぶりに羽を伸ばせる貴重な瞬間に違いなかった。

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