第一章 感染者──三六項

 腰が抜けて立ち上がれずにいるナチを荒々しく抱き上げたギデオンが、凄まじい速さで扉へと弾かれた。踏み込みの強さに絨毯がぐしゃりと滑り体勢を崩す。すかさず持ち直して床を蹴り、出口まで一直線に駆け抜ける。


「待つんだギディ」


 腕の中でナチが掠れた悲鳴を上げた。扉のノブはもう目の前。手を伸ばせば掴める。早くここを出て隠れなければ、その気持ちがギデオンをひどく急き立てる。迷わず片方の腕を伸ばして、ノブへと手を掛けた──


「──なんっ……!」


 だがそれに触れることは叶わなかった。何かがこの手首を掴み上げて扉と自身との間へ割り入ったのだ。勢いを殺せず、そのままギデオンはその何かに激突する。思わず取り落としたナチが、背中を打った痛みにきゃんと鳴いたのが聞こえた。


「貴様……!」

「逃げちゃダメだよ」


 扉の前に立ちはだかっていたのは淑慰であった。ギデオンの片手首をがっちりと掴んで離さない。いくら力を振り絞ってもがこうとも差は歴然、それどころか淑慰はピクリともせずにじっとギデオンの滑稽な抵抗を見つめているだけなのだった。


「離せ、離すんだよ化け物!」

「淑慰、グッボーイだ。そいつに枷を掛けろ、は俺がやる」


 後ろでようやく腰を上げた雷路が、悠然とした足取りでナチへと近付いてくる。ギデオンは考えた。せめてナチだけでも、彼女ひとりだけでも逃がすことは出来ないだろうか、と。そうしているうちにも、自身も後ろ手に手錠を掛けられてしまった。無理だ、間に合わない。打つ手もない。これ以上悪足掻きするだけの時間も無い。


「嫌よ嫌、手錠なんて嫌……! 触らないで、助けてよギデオン……!」

「うるさい、回収する際のルールだ。お前の仲良しも掛けたぞ、言うことを聞け。ほら、足も」


 完全な敗北だった。一気に全身の力が抜けていく。これまでなのだ。ギデオンとナチそれぞれの手足にはしっかりと枷が掛けられた。悔しさと罪悪感で崩れ落ちたギデオンの横で、雷路が膝を折り耳打つ。


「安心していい、ギディ。向こうなら命と生活が保証される。お前らはまだ今の状況を少しもわかっていない。俺の話を聞け、後悔はしないはずだ」


 雷路がナチをそっと抱き抱えた。続いてギデオンの身体も持ち上がる。淑慰の腕に包まれて、その安定感と温もりに張り詰めていた神経のすべてが緩むのを感じた。探索者たちが何かやり取りをして歩き出す。ナチの声も聞こえた気がするが、ギデオンはもう疲れ切っていて、頭の中が真っ白であった。周りに配る気力すら無い。視界もぼんやりとしてきて、耳も遠い。深い水底へ沈むような感覚。心地よい揺れがたまらない。意識が静かに離れていく。


「ああ、クレイグ……私は──」

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