第一章 感染者──三七項
五、
背中からの押し上げるような衝撃に耐えきれず漏らした呻き声に、誰かが大丈夫かと返してきた。瞼を開けると、そこにあったのは低く狭い天井。無骨な鉄で出来たそれは所々が凹凸しており、一部は失われて天井としての役割を果たしてすらいなかった。大きく揺れる視界。ギデオンは、自分が車内に居ることに気が付いた。後部座席で仰向けに寝そべっているが幅が足りず、膝が立てられている。
そうだ、眠りに落ちたのだった──彼は思い出した。雷路の目的を知ったことで、一度は身を引きかけた反抗心が再び芽生えてしまったこと。約束を守れそうにない情けなさに打ちひしがれ、冷静さを欠いて無謀な奪還を実行に移したこと。あえなく策は挫かれ、抗う間もなくナチと自身とを捕らえさせてしまったこと。それらは淑慰の腕の中に収まった時、緊張の糸の急激な弛緩となって現れギデオンを無気力の海へと投げやった。沈んでいく意識が眠気を呼んで、やがて誘われるままに眠りについたのだ。
「あ……ああ、車、だね?」
「おはようギディ。その通りだ、俺たちは車で巣へ向かってる」
起き上がろうと試みるが、腕が後ろで束ねられているために上手く動くことが出来ない。何度か身動ぎをして、すぐに力尽きた。諦めて頭だけを動かし、車内を見渡してみる。ボロボロの屋根と、骨組みが露出した助手席のシート背面。自身が横になっている後部座席と運転席の間の隙間でナチが座り込んでいる。彼女は心配そうな面持ちでギデオンを見つめていた。
「ナチ、ナチ大丈夫かい? 良かった、無事で……」
「わたしは何ともないわ、ちょっぴり足が痺れてるくらい」
首をもたげてバックミラーを見やると、端の方、運転席側にずいぶんと見慣れた栗毛が写り込んでいた。車体が段差で揺れ動く度にちらちらと縁なし眼鏡のシルバーテンプルが現れる。雷路だった。どうやら彼の運転で走行しているらしい。
「そうか、首輪つ──雷路。君、運転は出来るんだったね……あれ、だけど、君があの病院へやって来た時は装甲車を使ったって言ってなかったかい? それにしては」
「そこに気が付いたか。残念だが、あれは無くなってやがった。来た時乗り捨てた所へ戻ってみれば、残ってたのはこいつ一台さ。誰かが乗り換えていったんだろうな」
「どうりで……」
故障を疑うほどの音を立てて、車体がとてつもない縦揺れを披露した。ギデオンの体が一瞬浮き、ナチが綺麗に跳ね上がる。前の二席から苦痛を訴える声と口汚い悪態が聞こえてきた。流れでぶつけた頭が痛むが、さすることすら許されない。ギデオンは奥歯を噛み締めて痛みをこらえた。
「クソッタレ! こっちはただでさえ首の調子が悪いってのに──後ろ、大丈夫か。悪いな、前がよく見えなくて。埋まってた岩でも踏み越えたらしい」
「ぐうう、生きてはいるよ……」
悶絶するついでに色々と体勢を変えていると、ちょうどよく起き上がれそうな位置を見つけた。関節という関節をフルに使いこなして何とか身を起こしてみれば、目に映ったのは豪雨に濡れた灰色の雑木林だった。心を不安にさせる薄暗さが相まり、それはひたすら出口のない永遠のように続いて見える。舗装されていない、細くうねる獣道を車は走っていた。ぎこちない動きのワイパーと雨、フロントガラスに刻まれた巨大なひび割れのせいで、視界はすこぶる悪い。ヘッドライトの明かりも、この滝雨ではただの白んだ間接照明程度の頼りなさだ。
「病院の外へ出たのは何年ぶりだろうか、こんな林が近くにあったことも忘れてしまっていたよ」
「ここはもう病院の近くの林を越えた先だぞ。もうすぐエリアを跨ぐ」
「なるほど、私はよく眠っていたのだね」
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