第一章 感染者──三八項

 雨音とエンジンの鼓動だけが支配する車内。冷たい景色を目で送りながら追憶に浸っていたギデオンは、ふと助手席の淑慰の頭部からレース飾りが外されていることに気が付いた。ギデオンの位置から窺えるのは彼の後ろ斜めな横顔と真っ白い頭髪だけ。高さのある眉から繋がった、くびれが美しいシャープな鼻。引き締まった顎のラインと、存在感のある喉仏のふくれ。見れば見るほど作り物のような出来の良さが露見する。それでいて太くがっしりとした首と広い肩、逞しい腕と厚い胸板をも持ち合わせているというのだから感心する。話し方さえああでなければ、これほどまでに男として完成された人間も居ないだろうにと思う。


「済まない、一本いいか」


 雷路が運転席からひょっこりと右手を上げた。黒いグローブを嵌めた手の、骨張った丈夫そうな人差し指と中指に挟まれて煙草が一本揺れている。濃茶の包み紙をした煙草だった。


「私は構わないが……今どき既製の煙草とはずいぶんと珍しいものを手に入れているんだね」

「ん、そういうものなのか。俺はこれを入手するのに困難を要したことはないがね」

「外にあるのは知らない誰かの手作りのものだけだよ。そんな高価な嗜好品は、命懸けで取りつけた情報でもなきゃ取り引きしてもらえないのさ」

「知らなかったな」


 手が引っ込むとカチャン、という耳に懐かしいジッポの音が響いて、灯火が一瞬その赤で辺りを照らし出した。くゆる白煙の後からは、慎ましい甘さを孕んだ焼け葉の香りが漂ってきた。


「結構長いのかい?」

「四年だ。何てことはない、誰もが一度はある“煙草を嗜む大人の渋さへの憧れ”から手を出したってだけの大馬鹿者だよ」

「ははは、わかるよ。でも君、四年って──君はかなり若いように見えるが、今一体いくつなんだい……?」

「十九だ」


 なんだって、とギデオンが大きな声で聞き返す。座席の陰で黙っていたナチが首を竦めた。助手席の淑慰がバックミラーから振り返る。


「十九って、君……! 言いたいことは山ほどあるけれど、若い身体なんだからもっと大切にしないといけないじゃないか!」

「大丈夫だ心配するな。言ったろう、人はどうあれいずれ死ぬ。それが今か明日か明後日かってだけだと」

「いやまあ、そうだとしてもだね……!」


 ナチが咳込み始めた。紫煙が肌に合わないらしい。屋根に空いた穴だけでは換気が間に合っていないのは事実だった。


「なんだ、ナチお前、煙草は苦手か」

「ケホ……煙草なんて見たこともなかったわ。お父さんもギデオンも吸わないもの」

「吸うか?」

「雷路、ナチにあまり良くないことを教えないでくれないか」

「冗談だ」

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