第一章 感染者──八項

 男はすく、と立ち上がって明かりを消し、再び暗闇へと耳を傾ける。近くに人気は無い。だが、足元に転がる死体の残留具合を見る限り、殺されてからそうひどく時間は経っていないのは明白──下手をすると、気が立ったままの加害者と鉢合わせる可能性があった。

 慎重な足取りで死体の脇を抜けると、肌に触れる空気の圧が変わった。ひらけた場所に出たらしい。いつもより大きな音で舌を打てば、当然広範囲の間取りが男の目に写った。向かって左手に変哲のないナースステーション、右手には五つの広々とした病室。恐らく大部屋なのだろう。正面には上と下それぞれに伸びた傾斜緩やかな階段。すぐ横の壁に飾られた階層案内板の隣には、“3F”の文字のオブジェが。


「こっちが本館、で、間違いはなさそうだ」


 案内板へと歩み寄り、男はフン、と喉の奥で唸った。ほんの数秒、暗闇の中のパネルと睨み合っていたかと思うと、おもむろに左の手を前へと伸ばす。


はどのフロアから入るんだ?」


 映像としての情報は何一つとして目に入らないが、男にはしっかりと案内板に書かれた文字が見えていた。音を見る高度な技術など使わずしても指先から文字を解読出来る、誰でも努力次第で簡単に会得可能な、あのやり方で。


「……あったぞ。ここだな、“本館東棟地下一階”」


 それは点字読み。彼が幼い頃に他の学習と共に教わった、生存術の内のひとつ。人はいつ何時、どういった理由で視力や聴力を失ってしまうかはわからないもの。特に彼らのような探索者であれば、危険をかえりみず他者との生存競争に身を投じる機会も多い。負傷で目や耳を失ったとしても情報を得ることが出来る手段として、この時世、自主的に点字読みを覚えようとする人間は決して珍しくない。

 目的地が明確としたところで彼は、下へ向かう階段へ足を向けた。どこかの隙間から入り込んだ雨の日の湿気った風が、彼の肌をぬらりと撫で上げた。とても気持ちいいものとは言い難い感触に唇を引き締めて、男は一歩、踏み出す。

 その時。


「──地下に行きたいなら降りる階段が違うぞ、探索者」

「……ほう、そいつは知らなかった」


 彼の右の耳に、若く張りのある男の声が飛び込んできた。整然として訛りのない、本場の英語だ。

 もちろん振り向いても姿は無い。そこにいるのが間違いないのはしっかりいるが、大まかな体格以外の細かいものまではさすがに見えやしない。


「私はギデオン、ここを拠点にしてる探索者のひとりだ。建物内の通路はすべて覚えているからね、真っ暗だって歩き回れるんだ。よければ案内しよう、地下には明かりと安全を約束しよう」

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