第一章 感染者──七項

 彼の指先が、鼓膜が、反響の僅かな違和感を感じ取ってより一層神経を研ぎ澄ます。四角いはずの空間から跳ね返ってきた、曲線を有する音。硬いはずの壁と床から伝わってきた、やわらかい響き。男はあらゆる角度で頭を回し、より立体的な音を聞き分けようと試行錯誤する。


「……無機物じゃあないな。人の形をしている、だが生きている生身の人間でもない」


 思考回路の片隅で、ひとつ確信にも似た答えが浮かび上がった。歪な反響の正体、それは彼にとって別段珍しいものではなく、この世界にとっても身近なものと、秩序崩壊の犠牲者──つまりは、人間の死体である。


「哀れだな。こんな寂しい場所で最期を迎えるだなんて」


 男は警戒を緩めてスタスタとそれへ歩み寄る。手前で立ち止まり、周囲に人がいないのを確認してから小柄な身を折って屈んだ。すると、足元に滞留していたらしい独特のきつい臭気が鼻をついた。雨の湿気のせいで拡散されずに淀んでいたのだろう。わかっていたこととはいえ、こればかりは慣れが利かない。眉をひそめ、袖で鼻を覆う。

 いくら近付いたところで明かりがなければ死体の様子は窺えない。男は空いた手でベストうちの胸元をまさぐり、短く細い金属物を取り出した。中央にはいかにも回転しそうな、横に走った切れ目が見える。彼は器用に指でその金属物の上半分をくるくる回すと、回転させた方とは反対の末端部分が光を放った。ペンライトだった。


「最近はあまり死体を見ずに済んでいたが、今日こそはダメだったか」


 ペンライトの光は一直線で、外側への光漏れがかなり抑えられたつくりをしていた。電球の位置がペン先より随分と引っ込んでおり、発光部の耐久性にも優れたデザインである。明かりを人目に付きにくくすることはこういった場においては最優先事項になる。どうしても光源が必要という場面では、大変重宝する便利道具なのだ。

 死体を少しずつ照らしていくにつれ、その無惨な姿が徐々にあらわになっていった。あらぬ方向に折れ曲がった四肢、破れて布切れと化したボロ服、腹部を突き抜けて飛び出した凹凸のない腸の塊、血の気のない肌から突出した白い肋骨。追い討ちをかけるように、首から上はほぼ原型など留めていないという仕打ち。脳漿らしきものが溢れ出た血まみれの頭部が辛うじて首と繋がっているだけなのだった。


「酷いやられ様だ、他者に殺められたんだな」


 男は明かりを消して一言、むう、と唸る。


「──“感染者”でなければ、何でもいいがね」


 あからさまな外傷と、目立った異質な腐敗の仕方をしていない皮膚。これは害をなさない死体であった。たまたま気の立った他者に見つかり殺されただけの、。男が懸念する、“感染者”ではない死体。

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