第一章 感染者──二四項


 閉鎖病棟内。閃光筒とペンライトの明かりを頼りに入り組んだコンクリート迷路を進む雷路と淑慰は、未だ鼻の奥で渦巻いている悪臭に眉をひそめながら、人の気配、あるいはその形跡を探って神経を尖らせていた。視界の端で七本脚の蜘蛛がのらりくらりと歩いている。仲間同士の争いで傷ついたのだろうか。あちらでは二匹のネズミが耳を立ててじっと辺りの様子を伺っていた。ふたりの男と蜘蛛とネズミ。それから埃と廃品。ここにはそんなものしかない。


「少女は何処にいると思う、淑慰。俺はこの救いようのない閉鎖空間の、最奥にいるんじゃないかと考えてる」

「しゅくいもそう思うよ。だけど、いちばん奥まで行くのはたいへんそうだね」

「そうだな」


 芸術的なガラクタの山々を跨いで、雷路と淑慰は奥へ奥へと進んでいく。どちらから来てどちらが目的の方向なのかを見失わないように、角を折れる際は必ず音を投げて確認するのを怠らない。微かに響きの尾っぽが抜けていくなら来た方、そのまま返ってくるなら向かう方。なぜなら、来た方は柵扉から音が逃げてしまうが、向かう方は建物の構造上突き当たりであるから。こんなに簡単で当たり前のことが、“外”で生き延びる上では意外と大事なのだ。


 幾度か角を折れた頃、雷路はおや、と足を止めた。景色が変わったのだ。無機質でつまらないコンクリートの灰色が足元の境目を最後にスッパリと途絶え、病院らしい白い壁と床が現れた。相変わらず窓こそ無いが、ここまで来て突然、分断するように建築の様式が変わるというのは少し不思議であった。


「壁は塩化ビニルのクロスが貼ってある。床は……こちらもビニル製のタイルだな」


 ペンライトを右に左に振りながら、雷路は淡々とそう言った。どちらの素材も決して珍しいものではなく、病院や介護施設などではよく見られる一般的なものだ。素材自体は特別な意味は無さそうだが、それにしても、ここまでの雑なコンクリ造りから一転、わざとらしい病院らしさを貼っつけただけのハリボテ内装を整えた理由がどうも気になる。閉鎖病棟自体が建てられた時からこうであるのならば文句は無いが、見たところ、これはわりと近い昔に人為的に後付けされたらしいのだ。道中との経年劣化の差がそれを物語っていた。誰が何のためにこのような手のかかることを、わざわざ。


「ここだけ綺麗だね。誰かが後から付け足したみたい」

「ああ、俺もそう思う。ここまでのコンクリートの劣化に対して、ここから先だけずいぶん若い。下手すれば、整備されて十年も経ってないかも知れないな」

「最近だね」

「ん。その辺りはちょうど宣言の前後くらいだからな、何か理由があって慌てて整えたんだろう」


 雷路が眼鏡を持ち上げて、ニィ、と口角を吊り上げる。それから下唇を撫でるように舌を這わせて──彼がこれをするのは大概、自身の推測や考察に確信を抱いた時なのだが──やはりそうだな、と呟いた。


「わかりやすいやり方だな。この先に彼女を隠しているぞ、と教えているようなものだろう」


 鮮やかな茶を強調する革靴と、一点の濁りもない黒のブーツが同時に一歩を踏み出す。迷いも恐れも見せないふたり分の足音は、この場の異様な白たちをぶるりと震え上がらせた。招かれざる客らに己を踏み散らかされる恐怖と、隠した秘密を引きずり出され手を触れられることへの拒絶。それらが生み出した深い深い暗闇ですら、雷路と淑慰を拒むにはあまりに非力な障害物だった。


「俺が、この程度の労働を暇つぶしと呼ぶくらいに強い男であったならよかったのにな」

「らいじは強いよ、それに頭も良い。いつかホントにそうなれるかもしれないね」

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