第一章 感染者──三項

「静かだな。雨音ばかりでは耳が飽きる」


 男は悠然とした足取りで、ゆっくりゆっくりと廊下を進んでいく。耳を澄ませても息を殺しても、やはり人はおろか生き物らしき気配は一切感じられない。無機質で退廃的な廃屋の中に今いるのは、全身を打って調子が優れない栗毛の探索者サバイバーと黴と淀んだ空気だけ。そんな気さえしてくる。

 彼が突き当たりの──予想通り左手へ先が続く曲がり角だ──ひとつ手前の病室跡を過ぎようとした時。部屋の奥の硝子窓から、ほとばしる閃光が飛び込んで来た。薄暗がりに目が慣れていた男にとってまばゆ過ぎたその光は、鋭い痛みを伴って眼窩の奥底を貫いた。


「……落ちたか」


 次の瞬間、足元の硬い床を大きく揺さぶるほどの振動を孕んだ、張り裂けんばかりの雷鳴が男のはらわたを震わせて轟いた。男は擦り傷だらけの左小指で耳の穴をほじくり、顔色一つ変えないまま歩き続ける。彼にとってはこの程度の落雷など、気に止めるに値しないということらしい。実に肝が据わった男である。


「む、心なしか肌寒いな」



 曲がり角から先は、踏み入ることを躊躇するほどの濃厚な闇だった。一層重さを増した空気がぬらりと流れ出してきて足を絡め取る。何処かから獣の遠吠えが聞こえた気がしたが、恐らくこれはただの風鳴りだ。闇が見せた、あるいは聞かせた幻。人間が恐怖を感じた際、普段であれば気にも止めない些細な変化を大袈裟に受け止めてしまう現象のありふれた一部分。男は足を止め、眼鏡をくい、と持ち上げる。


「俺もしっかり人の子だったというわけか」


 彼は一歩前に出ると、左の壁を拳の甲でノックした。勿論、コンクリートで出来た壁はびくともしなければ音を反響させるわけでもなく。今までと何ら変わらず黙ってそこにあり続けるだけである。それでも男は真っ直ぐに闇の向こうを見つめたまま、“それ”が返ってくるのをじっと待っていた。目視することは出来ない、彼にしか聞こえない、“震え”を。


「……次の突き当りまで七部屋と階段ひとつか。街外れの無名病院だったにしては比較的広いんじゃあないか」


 ──彼には、人より特別優れた聴覚がある。通常の人間の聴覚では聞き取ることが不可能な振動や圧を、として聞き分け判別するのだ。彼自身が生み出した振動、天候の変化により生じた気圧の変化など、本来音としては捉えられないものを彼はそれとして聞くことが出来るのである。

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