第一章 感染者──二十項

 気力と体力の限界を賭けた熱のぶつかり合いを遠目に、雷路が瓦礫の山の陰から声を張った。極めて真剣な眼差しの先、モルターの真正面に対するところの三時方向に位置する肉腫が収縮を止め、膨張を始めたのだ。短時間での急激な体組織増幅は当然の事ながら核へ甚大な負担を掛けることになり、場合によっては死へ繋がる自傷行為。追い詰められたウイルスが遂に、最終手段を用いてでも淑慰を排除する気になったらしかった。排除出来たとしても死滅する可能性を十分すぎるほど抱えていても、己の直接的な力の行使で敵を核から引き剥がすことを選んだのだ。

 当たり前ではあるが、これを最後まで増幅しきらせるわけにはいかなかった。そうなれば完全なる手遅れになってしまうのだ。何としてでも、どんな手段を使ってでもこれを阻止する必要があった。増幅し成長しきった肉腫は凶器となりうるだけでなく、力を失った核が依然として支配する宿主からこれを自切したる別個体とした事例が実際にあるのだ。そんなことがあっては、淑慰が決死の思いで宿主を死滅させたとしても話が振り出しに戻ってしまう。雷路は微かに焦りを覚えていた。


「淑慰、聞こえているか! 淑慰!」

「うおおおおおう!」


 一刻も早く淑慰に、この事態を収束させるよう指示を回したいところだが。肝心の彼はもう聞く耳など持っていなかった。指先に迫ったモルターの“心臓”を破壊することしか頭に無いのだった。あと少しで完遂される自身の任務だけに忠実な淑慰という男は、雷路の懸命な訴えに傾ける耳も捨ててひたすらにモルターへ食い下がっていた。


「俺は近接戦だけは勘弁なんだがな」


 肉腫は元の倍以上に肥大化している。もうまごついている時間は残されていなかった。辺りを瞬時に見回して、武器になりそうなものを探る。木片、鉄棒、杭──ふと目に止まったのは、数メートル向こうで血溜まりに転がる黒刃のナイフ。淑慰のナイフだった。


「得手不得手、というやつだ」


 雷路は物陰を飛び出し一目散にそこへ駆け寄る。すかさずナイフをすくい上げきつく握り締めると、モルターの背後へと回り込んだ。狙うは、見上げた先の馬鹿でかい肉腫ただひとつ。ウイルスが活動生命を賭けて作り上げた、最終兵器たる不気味な触手。不快な音をばら撒きながら成長していたこれも、そろそろ膨張の限界に達しようとしていた。今断ち切らねば余計な手間が増えてしまう。そしてなにより、淑慰が危険に晒されてしまうのだ。やるしかなかった。モルターとの距離を測り数歩退く。淑慰が吠える。心拍が高鳴る。ナイフを構え、雷路は、駆け出す。

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