第一章 感染者──十九項
だがそれらはすべて、瞬きひとつ分も遅れた過去のものであった。淑慰が初めて自身に起きた異変に気がついた頃には既に、背中から始まった突き抜けるような痛みを意識していた。背骨が強かにコンクリート壁へ打ち付けられた痛み。何が起こったか把握するまでには数秒の時を要した。吹き荒れる砂嵐、二重にも三重にもぼやけた視界、灰色と赤の景色。世界がおかしくなったのではない、彼の身体が負ったダメージの大きさに耐えかねた結果現れているだけの幻なのだ。
どさり、と膝から崩れた淑慰の目に、はっきりとしなかったが何かうねるものが写った。左手首に巻き付く太いそれは、力無く数度捻転をしてぱたりと動きを止めた。ぐらつく頭を持ち上げて前を見やれば、輪郭があやふやな巨大生物が今まさに切り落とされた腕の付け根から大量の血液を撒き散らして苦しみにのたうち回っていた。肉腫たちがピンと張り詰めて痙攣し、至る所で筋肉が過剰なまでに収縮している。こちらも痛手であったが、向こうにとってもさぞ特大のダメージだったことだろう。
「淑慰、しっかりしろ! よくやったぞ、グッボーイだ!」
「ん、大丈夫……あとは、核だけだから、しゅくい頑張るよ……!」
再び立ち上がろうとする淑慰の右脇腹に、ひどく怖気付いた横隔膜からの警告のような痛みが脈打った。思わず息が詰まる。あの空白の一瞬に、彼はここを殴り飛ばされていたのだ。強靭な肉腫の鞭で殴られた驚きに竦み上がった内臓が怯えきってしまっていて、前に進むことを許してくれない。
モルターが徐々に大人しくなっていく。核から繋がる重要な部位を落とされたことによる損傷は、この異形にとって致命傷と言えた。あとは核自体を再生不能になるまで破壊するだけ。淑慰は安定しない平衡感覚に喝を入れ、両足でしっかり地面を踏みしめる。意を決した彼から漏れ出す闘志に揺すられて、レースがひらり、と薄い羽を羽ばたいた。空になった左手を数回握ったり開いたりして調子を整え、最初よりもずっと低く、力を込めて重心を落とす。
「はあああああ!」
腹の底から咆哮をあげて、淑慰は獣のように飛び出した。あっという間に距離を詰めたと思ったが早いか、指の先まで闘争心に染めた左手をモルターの腰の穴に躊躇無く撃ち込む。ところが、身体を縮めて硬化し、防衛を謀るモルターの筋肉は想像を遥かに超えて硬い。辛うじて手の半分から上が埋まるか否かといったところで止められてしまった。もちろんここで臆する淑慰ではなかった。空気を轟かす猛き雄叫びと共に、全体重を一点に集めて無理矢理にねじ入れていく。首元の白い肌がくっきりと血管を浮き立たせ、うっすら赤みを帯びていた。歯ぎしりと咆哮を繰り返しながら、閉ざされた肉の無い隙間をこじ開けるようにしてモルターの体内へ侵入していく。
「淑慰、きゃつが三時方向の肉腫を一本、急激に増幅・硬化させている! お前を叩き潰すつもりだろうが、あれを真っ当に喰らうのはまずいぞ!」
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