第一章 感染者──二項

 男は乱れた平衡感覚にふらつきながらも徐に立ち上がった。しかし不意に鳩尾を殴られたような衝撃が走り、つい前屈みになる。横隔膜がまだ落下のダメージを引きずって怯えているのだろうか。踏み出す足もいやに重たくて、少しばかり癇に障った。


「クソ! 自由が利かないのだけは勘弁してくれ」


 小柄な体躯に相応しくない、谷底を這う大蛇のうねりに似た低いしわがれ声が悪態を吐く。が、激しさを増す雨音の不規則なノイズがそれを掻き消して、言葉は誰の耳にも届かず暗がりへと消え入るのだった。

 胸元をよく擦りながら、覚束無おぼつかない足取りを部屋の隅へと運ぶ。有るのは、外れかけた金型からアルミ板が辛うじでぶら下がっているだけの観音扉。見る限り、ここを出るにはこの、扉だったものがぶら下がる出入り口ひとつしか道は無いらしかった。先はどこに繋がっているのか、先に何があるのか、建物の構造の詳しいことなどはさっぱりだが──どうにも、男には“行かねばならない場所”があった。この場所を出て、砂埃と暗闇だけのこの薄気味悪い廃病院を進まなければならない理由が。

 扉から向こうは、今にも闇と同化してしまいそうな淡く儚い光で照らし出されていた。雨が何処かの街から運んできた反射光だろう。人の気配はまったく感じられない細く長い廊下。敷かれた絨毯は煤けてしまっていて、色や模様はちっともわからなかった。廊下の途中には壊された小棚やベッドが幾つも乱暴に取り残されており、ここに人が頻繁に出入りしなくなってから久しいことが見て取れた。通路を挟んでちぐはぐに向かい合う病室跡は何者かの悪戯によってすべて扉が外されている。やや遠く奥側には袋小路の突き当たりが見える。いや、あれは曲がり角なのかも知れない。うっすらとした暗がりが左手から伸びていた。


「……“奴ら”が近くに居なかったのはラッキーだったな」


 男は痛む首を右に左に傾げたりしながら廊下を進む。足を踏みしめる度に床上の屑ゴミや硝子片がジャリ、と音を立てた。どんよりしたかび臭い空気が彼の動きにつられて流れ出す。これを吸い込んだ男が軽く咳込むと、ひゅう、という独特な尾を引く咳が長い廊下を縦横無尽に跳ね回って、瞬きする間にいなくなった。

 違和感が拭えないのか、しきりに気にするその首元に、なにか艶のあるものが覗いた。それは右手の革手袋と似た黒革のチョーカーであった。金糸で縁取られただけの至ってシンプルなそれは、喉仏の突起のすぐ下にぴったりと収まっている。余程良い素材を使用してつくられているのだろう、革自体の艶と表情は誰の目に見ても立派としか言い様のないものであった。こんな薄汚れた埃っぽい廃病院の上階から転げ落ちてくるような人間が気を使った洒落物にしては、品が過ぎる逸品といったところ。

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