第一章 感染者──四項

 男は一歩、また一歩と暗がりへ踏み入っていく。その足取りに迷いはない。彼には見えているのだから。部屋の間取りや階段の傾斜、足元を駆け抜けた甲虫の細い触角。音として彼の耳に入った視覚的情報が、頭の中でモノクロの景色を描き出す。


「上階へ行くにしても、階段なんかで奴らと鉢合わせなんぞしたら面倒だ」


 背後で稲妻がフラッシュのようにまばたいたその一瞬の明りが、男の進行方向を僅かな間だけ照らし出した。そこには彼が呟いていた通り、向き合った七つの病室と、上階下階に繋がる階段が。壁の所々にはペンキで描かれた謎の絵や手癖の強い英字。辺りで暮らすろくでもない若者が遊び半分でやったのだろう。何と書いてあるのかはよく見えなかったが、こういった街外れの廃屋でたむろするような人間が書いたものなど、たかが知れている。


「……窓を伝うか。濡れるが仕方ない」


 男は不服を床に吐き出し、黒の中を悠然と進む。身体の痛みはだいぶ落ち着いてきていた。軽く腕を振り、手首を回し、体側を伸ばしながら突き当たりの窓辺を目指す。時々足を止めてノックをし、付近の様子も伺いながら。

 突き当たりは袋小路であった。このフロアは箱型の完全な閉鎖空間で、外との通路は存在しないらしい。別棟、ということだろうか。

 男がワイシャツの両袖をまくって、逞しい腕を顕にした。男らしい太く筋張った腕だった。それからぴょこぴょこと飛び跳ねて身体を慣らし、首の調子を確かめて、深呼吸をひとつ。指先の運動を兼ねて何度かグーパーを繰り返し、いざ。全体重を掛けて立て付けの悪い窓をこじ開ける。


「はっ、はっ! なんて鬱陶しい窓だ!」

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