第一章 感染者──五項

 初めはウンともスンともいわなかった窓だったが、男が歯を食いしばって追い討ちをかけたところ、バスン、という破裂音の末にすんなり横にずれた。硝子は割れずに済んだが、レール部分の噛み合わせが外れてしまったようであった。とはいえ、後々また閉める都合もないが。

 反対側の通路と違い、風向きの関係上さほど激しい飛沫が襲ってくるわけでもなく、窓の外はただ単なる上からの土砂降りだった。男は枠をひっ掴むと、片脚を難なく胸の高さまで持ち上げて窓枠へ掛けた。そしてそのまま腕と脚の力に任せてひょいと乗り移ると、濡れるのも厭わず身体を外へとのめらせる。あっという間に彼の身体はずぶ濡れ。黒いワイシャツとグレーのベストがしっとりと雨に溺れ、艶の良い栗毛ももはやぺたりと頭に張り付いてしおらしくなってしまった。


「……む、この建物は四階建てだったのか」


 大粒の雨が降りしきるとした空を見上げるようにして顔を上げてみると、現フロアと似た構造の窓辺が四階分あるのが窺えた。重みのある灰色に塗られたコンクリート壁と、その表面を這い回る白い配管の束。割れや抜けにより半分以上が役割を果たしていない、窓群。天候の状態も相まって、それらは恐ろしい怪物の姿にも見えなくもない。


「で、あっちが本館かなにかだな」


 ──そしてこの退廃的な怪物のすぐ隣、目と鼻の先の距離に、さらに恐ろしい巨大生物が佇んでいた。此方よりひと回りもふた回りも大きな、四角い白壁の建造物。明るさを醸すために取っ手付けたような色がいやに脳裏に残る。不気味という言葉が良く似合うこの場において、上辺を取り繕った程度のカモフラージュが余計に周囲から建物の存在を浮かせていた。


「フロアの数からして、連絡通路は三階辺りにありそうだな」


 男は身体を反転させて頭上の細い配管群へ飛び付き、配管から配管へと外壁上を移動していく。目標は三階フロア。冷たいベールが男を包み込み、瞬く間に体温を奪ってゆく。グズグズしてはいられなかった。擦り傷と砂埃にまみれた左手は壁の微妙な隙間を捉えて掴み、冷えた革手袋に凍える右手は配管を握りしめて自身の落下を防ぐように力む。左脚が壁を蹴り、右脚が段差部を踏みしめて次の行動への軸となる。男の動きには無駄というものが無かった。この道に慣れた玄人の、洗練された身のこなし。激しい雨に打たれながらも、それは微塵も鈍ることを知らない。

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