第一章 感染者──十五項

 骨組みだけの簡易ベッドや横転した医療用ワゴンなどの障害物を最小限の跳躍で飛び越え、ぶら下がる蛍光灯を紙一重で躱し、雷路は一直線に淑慰の元へ急いだ。野鼠がチュウチュウと悲鳴を上げて物陰に逃げ込む傍らを、それより速く駆け抜ける。左に曲がり、右に曲がり、もう一度右に曲がってさらに左。描かれた迷路を上から指で辿るより滑らかに、迅速に、目的の場所を目指して無心で走っていく。


「あと少しだ、あと少し先の曲がり角を折れたら着くぞ淑慰……!」


 急激な運動に弾む呼吸の中で、届かない言葉を口にする。無意味にも見えるそれが雷路の背を強く押して、最後の角へ掛かる直線を一段と加速させた。感染者たちが狂ったように甲高く吠えている。逆さまの椅子を越え、割れた花瓶を踏み付け、淑慰がいるであろう場所の手前で角を右へと滑り込む──


「──淑慰! 感染者インフェクトは全部で四体いるぞ、把握しているか!」

「らいじ、どうしよう、変なのが混じってる!」


 張り裂けんばかりの鳴き声で満ち満ちたその場所は、集会室かなにかなのであろう、ひらけた巨大な一室。雷路の目に写ったのは、荒れ狂う三人の男女と一体の醜く歪んだ、それらからの猛烈な攻撃を受け流して身を守る淑慰の姿であった。感染者たちは淑慰の存在に対し相当激昴しており、大声を放った雷路にすらまだ気がついていない。目先の敵を排除することしか考えられないらしい。


「閃光筒を割れ! 後の援護には尽力しよう!」

「わかった!」


 雷路はまず彼らの視野の外から壁際を大きく回って、部屋の中程、人ひとり分前に出た木棚の陰に身を潜めた。ここであれば彼らの目を欺けるだけでなく、淑慰の行動を窺いながら指示を下すにも丁度いい範囲内に身を置くことが出来た。素早く屈んで隙間から少しばかり顔を覗かせたと同時、暗い部屋の中央を鋭い閃光が貫いて刹那、世界が明転した。淑慰の閃光筒だ。


「……クソッタレ、面倒だな」


 悪態を噛み締める雷路の視線の先、そこには突然の眩さに怯んで攻撃の手を緩めた感染者の群れがいた。読んで字の如くのボロ布を申し訳程度に身体に纏わせた、赤黒い斑点で覆われた皮膚の男女。その内の男に至っては、顔面下部から胸にかけて膿んだ皮膚と肉が破れて垂れ下がっており、白い骨や伸縮する筋組織が露出してしまっていた。他の者もだいぶ腐食が進みつつあるようで、痛みからなのか苦しみからなのかはさておき絶え間なく腹の底から声を上げて泣き叫んでいる。


「らいじ、あれ、らいじが嫌いなやつだよ。だ!」

「久しぶりにお目にかかったな」


 ──その地獄絵図のど真ん中、三体の感染者に囲まれるようにして、一等目を引く異形の者は聳え立っていた。身体の外側だけが腐っていく原因不明の腐敗病、感染から長い時を経て人ならざる姿へと変貌した重篤感染者、“モルター”。皮膚が完全に削ぎ落ち、外部に曝され続けた筋組織が炎症を起こし、そこから来る様々な合併症によって腫れ、膿み、丸々と膨れ上がった身体。目玉を失った穴にはびっしりと湧いた蛆虫が。四肢は余分な関節を増やしており、胴体のあちらこちらから突出した肉腫らしきものが心拍にしては小刻みなリズムで常に脈を打っている。腹部の筋肉などもはや有って無いようなもので、支えきれなくなった内臓が腹膜を破って半分以上も床に引きずられていた。

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