第一章 感染者──二八項
足元に転がる幾つもの空き缶や空き瓶、汚れた調理器具たちはここで人が生活していたことを示していた。確かに、部屋の奥側には簡易的なコンロや小ぢんまりとした水道、申し訳程度の下水設備などがしっかり設けられている。このご時世にこれだけの整った生活環境を用意するのは容易いことではない。恐らくというか、大方ギデオンの功績であろうが、そう考えると彼は案外器用な人間なのかもしれない。
「名前は」
「先に名乗らないだなんて、こんな不躾な紳士様も居たものね! 離してくれたら教えなくもないけど?」
「名前は」
「話聞いてたの? だから、自ら名乗らない男なんかには──」
「──名前は、なんだ」
初めは辺りを見回しながら何の気なしに問うような調子で少女に名を尋ねた雷路だったが、駄々をこねる少女に対し徐々に口調が強く冷たくなっていく。それでも一向に名乗ろうとしない少女に痺れを切らしたのか、遂に彼は真っ直ぐ視線を投げて嫌にゆっくりと、再度同じことを尋ねる。これにはさすがの少女も何かを感じたのか、渋い表情で重い口を開いた。
「……ナチ。ちなみに十四歳よ。あんたたちがどんな理由でわたしに会いに来たかはわかんないけど、少なくとも第一印象は最悪ね」
「そうかナチか。日本人みたいな名前をしているんだな。どう思われても俺らには関係ないが、あまり目に余る発言と行動を繰り返すようなら、今よりひどい印象をくれてやれるぞ」
雷路は表情ひとつ変えずにどぎつい冗談を言ってみせる。勿論これは冗談のつもりなのだった。元々この少女、ナチを連れ帰るにあたって肉体的・精神的共に必要以上の負担を強いないことが条件なのだ。あまりに暴れる際には鎮圧手段として鎮静剤の使用を認められてはいるが、これも出来る限りは避けて欲しいと言われているほどだ。詳しい理由など知りもしなかったが、雷路はこういった約束事は厳しく守る主義だ。
強ばるナチを気にも留めず、彼女の健康状態を診るべく、雷路が簡単な触診を行う。淑慰に持ち上げられたまま何も出来ずぶら下がるだけのナチだったが、しばらくすると年頃の子相応の反応で些細ながら抵抗を見せ始めた。
「ちょっと、いい加減にして……! あんまり服を捲らないでよ! 考えたらわかるでしょ、わたしレディよ……!」
「そのレディが怪我してないかをチェックしてるんだ静かにしていろ。男がみんな卑しい気持ちで女に触れるんだと思ってるなら小っ恥ずかしい勘違いだぞ、考えを改めるんだな」
ナチが頬を膨らませてそっぽを向いた。退屈だと言わんばかりに大あくびをする淑慰が右に左に首を傾げて調子を確かめている。ナチの身体中に“痕跡”が無いのを隅々まで確認し終えて、雷路がそれじゃあ、と口を開いた。目的の少女は確保に成功したので後は来た道を引き返すだけ。特にめぼしい物品も確認出来ず、いざ戻るかと淑慰に合図を回す、が。
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